【第一節  誕 生

 ゴータマ・シッダルタ、それがこの世にお生まれになったお釈迦さまの最初のお名前です。お父さんはスッドダーナ(浄飯王)、お母さんはマーヤ(摩耶)といい、インド平原の北部、ヒマラヤ山脈の麓にあるカビラ城という小さなお城の太子として、およそ2500年前にお生まれになりました。その国の大きさは東西80キロ、南北60キロほど。隣にはコーサラ国という大きな国があり、お釈迦さまの晩年には、一族はこの国によって攻め滅ぼされています。それでもお釈迦さまが誕生されたころのカビラ城は、王さまの名前でもわかるように、稲作を中心とした平和な農耕国家でした。

 マーヤ夫人はある夜、天から六牙の白象が降りてきて右脇から体の中に入ってくる夢を見たといいます。その後に夫人は懐妊し、お産のために実家のあるコーリヤ国に帰る途中、ルンビニーの園に立ち寄りました。その日は4月8日。園には春の訪れを喜ぶかのように花が咲き乱れ、池のほとりを散歩していた夫人が真っ赤な花をつけたアソーカ(無憂樹)の木に誘われ、その一枝を手折ろうと右手を伸ばした時、一人の男の子が誕生したのです。その子は生まれ出ると東に向かって大地を七歩あゆみました。そして右手で上を、左手で下を指してこのように宣言しました。

「天にも地にもただ我一人尊きもの(天上天下、唯我独尊)」

 誕生偈といわれるこの言葉にはさまざまな解釈がなされています。しかし後に悟りを開き、すべての生きとし生けるものを救おうとする聖者がこの世に現れたことを、天も地も祝福したことに変わりはないでしょう。

 太子の誕生を知り、お祝いに駆けつけたアシタ仙人は、王子を一目見るなり涙をこぼしたといいます。人々が不審に思ってその涙のわけを尋ねると、「この子は長じては世界を統一する理想の帝王たる転輪聖王か、真理を悟って人々を導くブッダ(仏陀)になるお方です。その時まで私が生きていられないのが悲しいのです」と語りました。両親にとってもシヤーキャ(釈迦)族にとっても、王子は希望の星だったのでしょう。しかしお母さんのマーヤ夫人は出産の後、7日でこの世を去りました。

 夫人亡き後、シッダルタ太子を養育したのは夫人の妹マハーパジャパティ(摩訶波闍波提)でした。後に仏教教団の最初の尼僧となる人ですが、やはり王子にとっては、母親との死別ということが、王者の道より聖者への道を歩む大きな動機となったのではないでしょうか。


  【第二節  出 家

 シッダルタ太子が宗教心を目覚めさせた発端となる一つのエピソードがあります。
 ある春のこと、カピラ城下でその年の豊作を祈る祭が行われました。王さまはもちろん、後継者となる太子もこれには出席しなければなりません。古いインドの宗教を司るバラモンが祈りの言葉を捧げ、農夫が牛に犂を引かせて田をおこした時、冬の眠りから目覚めた虫たちが土の中から姿を見せました。そのとき、どこから飛んできたのか、一羽の小鳥が舞い下りて虫をついばむと、アッという間に舞い上がったのです。するとどうでしょう。それを待っていたかのように、今度は大きな鳥がやってきて小鳥を捕まえると、大空高く飛び去りました。

 その光景の一部始終を目にした太子はショックでした。弱肉強食という自然の掟に驚きと深い悲しみを覚えたのです。太子はその場を離れるとだれもいない木陰に行き、その下で瞑想したといいます。そんな物思いにふける太子をスッドダーナ王が心配しないはずはありません。太子のために暑期と寒期と雨期の3つの宮殿を建て、適齢期になるとヤソーダラ(耶輸陀羅)という美しい姫と結婚させました。しかしどんなに恵まれた何不自由ない生活も、太子の心を満足させはしなかったのです。そこでお城の中に閉じこもっている太子に王さまは、郊外に出かけてみてはどうかと勧めました。

 お城に4つの門があります。東の門から出かけた太子はそこで何に出会ったのでしょう。
 それはヨボヨボになった老人の姿でした。いくら若さを誇っていても、いつの日にか自分も年をとってしまう。そう考えると太子の心は滅入ってしまいました。思い直して今度は南の門から出かけると病人に、西の門では死者にと、見たくない、知りたくない現実に太子は直面してしまったのです。そして最後の北の門から出かけた時に太子が目にしたのは一人の修行者でした。その清々しい姿に感動した太子は、いつの日か自分も出家して3つの門で出会った老・病・死の3つの苦しみを解決したいと思ったのです。

 その機会がやってきたのは太子が19歳の時、子どものラーフラ(羅喉羅)が誕生した年でした。「これで世継ぎもできたし、思い残すことはない」と決心した太子はある夜、御者のチャンナに命じて愛馬カンタカに乗り、カピラ城を出て出家修行者としての第一歩を踏み出したのです。


  【第三節  修 行

 太子の地位を捨てたシッダルタは、真っすぐに南の方へ旅をしました。南には当時のインドで強大王国だったマガダ国がありました。そのマガダの首都ラージャガハ(王舎城)に着いた時、この国の王ビンビサーラがシッダルタを呼び止め、「私の家来になるつもりはないか」といいました。これに対してシッダルタは「私も王族の生まれです。その身分を捨て悟りを求めているのです」と答えました。この言葉に感動したビンビサーラ王は「わかった。それならば、あなたが悟りを開いた後には、この城に来て私のために法を説いて欲しい」と語りました。後にこのビンビサーラ王は、お釈迦さまに帰依し、仏教の大信者となりました。諸国を遊行し、悟りを求めるシッダルタの前には幾つもの困難が待ち受けていました。幾人もの仙人にあって教えをこいましたが、何一つ満足できる答えはなかったのです。そこでネーランジャラー河(尼連禅河)のほとりにある苦行林に入り、自らの体を痛めることによって答えを求めようとしました。

 今のインドでもそうですが、当時の修行者にはさまざまな修行の方法がありました。苦行の目的は、それに耐える力を蓄えることによって、来世には天界に生まれ変わることができると信じられていたからです。シッダルタは、ありとあらゆる苦行を体験しました。なかでも断食の行はだれもが真似のできないはど凄まじいものでした。肉は落ち、肋骨は見え、生きているのか死んでいるのかわからないような状態。こんな苦行をシッダルタは六年近くも続けたのでした。しかし、たとえ来世で天に生まれ変われたとしても、その後どうなるのかという疑問がシッダルタの心に起きました。「その楽しみが尽きれば、また苦しみに落ちなければならない。六道輪廻といわれる生死流転の繰り返し。それでは真の救いにはならないのではないか」と思ったのです。

 「一からやり直しだ」とシッダルタは河で沐浴し、再出発を誓いました。そのとき、村の娘スジャータが乳粥の供養をしたと伝えられます。それをありがたく頂戴し、今を生きる力を得たシッダルタ。そんな姿を見た修行仲間は「シッダルタは修行を放棄した。彼は堕落した」と言って周りから去って行ったのでした。


  【第四節  成 道

 体力を回復したシッダルタは河を渡り、対岸のガヤの町に新しい修行場を求めました。そこは後にブッダガヤと呼ばれるところですが、一本の菩提樹の下に瞑想の座を定めると「私は悟りを開くまでこの座を立たない」と、シッダルタは決意したのです。それから、ひたすら真理を求めるために座り続けました。悟りの完成は間近でした。悟りを開かれては困ると思った悪魔(波旬)がこれを邪魔し、あるときは脅かし、あるときは誘惑したといいます。それはシッダルタ自身の心の中に生ずる悩みや欲望との戦いでもあったのでしょう。

 30歳の12月8日、明けの明星を見た時、シッダルタは「悪魔よ、汝は敗れたり」と宣言し、悟りを開いたと伝えられます。悟りを開いた者・真理と一体になった人、それをインドではブッダといいます。ブッダとは「目覚めた人」という意味です。だから人々は、釈迦族から出た聖者という意味でシッダルタのことを釈迦牟尼仏陀というようになりました。私たちがお釈迦さまとお呼びする理由がここにあります。

 さて、お釈迦さまがお悟りになられた真理とはいったい何だったのでしょう。それは「縁起の法」だったのです。それまでの修行者たちは自分という存在のみに心を奪われ、自分の救済だけを求めていました。しかしお釈迦さまの体得された法は「此れ有れば彼あり。此れ無ければ彼無し。此れ生ずるが故に彼生じ、此れ滅するが故に彼滅す」という、お互いに助け合い支えあっている生命の法則でした。言いかえるなら、他と無関係な自分という存在はないということです。縁によってこの世に生まれ、生かされていることのなかにこそ、私たちのいのちがあることを、お釈迦さまはお悟りになられたのです。これによって老・病・死という苦しみからお釈迦さまは解放され、今あるいのちの尊さを実感されたのでした。


  【第五節  梵天勧請

 その喜びにひたること21日間。仏伝はこう語っています。

 そして、悟りを開かれたお釈迦さまに新しい命題が生まれました。それは、この世を創ったといわれる梵天という神さまが、生きとし生ける衆生のために「あなたが悟られた真理を説いてください」と頼んだからです。(梵天勧請)

 自受法楽といって悟りの世界を楽しまれていたお釈迦さまはこれを拒否されました。それは、お釈迦さまご自身が体得された真理を、人々が理解するのはとても難しいだろうと思われたからです。そのため、やっと入り得た心の平安を乱されることをお釈迦さまは憂えられました。しかし梵天は言うのです。「すべての者がその真理を理解し得ないとしても、なかにはあなたの心にかなう者もいるでしょう」と。その勧めにもお釈迦さまは応じられませんでした。それならばと、梵天は3たびお釈迦さまに語りかけたのです。「たとえ今すぐすべてを理解し得ないとしても、その一部だけでも心に感じる者がいるならば、あなたはその真理を人々に語りかけなければならないでしょう」と。この梵天の要請にお釈迦さまは「我、法を説かん」と、菩提樹の座から立ち上がられたのです。


  【第六節  初転法輪

 お釈迦さまがお悟りになられたのは縁起の法です。縁によって生かされているとお悟りになったお釈迦さまが、次には他の人々にもこの真理を悟らしめようと立ち上がられたのも、縁のしからしむべき計らいだったのでしょう。そこで、お釈迦さまは、だれに最初に法を説くべきかとお考えになり、昔、サールナート(鹿野苑)で苦行を共にした仲間の5人の修行者とすることにしました。

 お悟りを開かれたブッダガヤから、サールナートまでの道のりは200キロ以上もありました。でもその道のりをお釈迦さまは歩み出されたのです。仏教は仏道ともいいます。仏の教えは頭だけで理解するのではなく、自らの体をもって学ぶべき道です。

 お釈迦さまがサールナートに到着されたと聞いて、5人の修行者たちは最初こう言ったそうです。「苦行を捨てた修行者なんて、みんな相手にしないでおこう」と。けれども、その尊いお姿を一目見た時、だれもが一言の言葉も発せなかったのです。そんな彼らにお釈迦さまは宣言なさいました。「私はブッダ、悟りを得た者である。私は今、あなたたちのために真理を説こう」と。(初転法輪)

 その真理とは「四諦の法」であったと伝えられています。四諦とは、苦・集・滅・道といわれる仏の教えの基本です。苦諦とはまず、「人生は苦である」と見定めること。集諦とは「その苦の原因を集め考えると、それは自己中心的な生き方にあった」(煩悩)と知ること。滅諦とは「その原因を滅するには縁起の法を悟る」こと。そして道諦とは「その法の道に従って、正しく生きる」ことなのです。この四諦を共に学び、身に修めようとして生まれた修行集団、それが僧伽(サンガ)と称される仏教教団の始まりだったのです。


  【第七節  教団としての仏教

 私たちは「篤く三宝を敬え。三宝とは仏・法・僧なり」という言葉をよく耳にします。これは聖徳太子の『十七条憲法』にある言葉ですが、仏教教団は仏であるお釈迦さまと、その教えである法と、その教えを実践する僧の集団(サンガ)によって発展していきました。その一つひとつについて、学習することは、『法華経』を理解するためには極めて大切なことです。

 たとえば10大弟子の一人であるシャリープトラ(舎利弗)や、モッガラーナ(目連)がどんな人であったのか、あるいはお釈迦さま亡き後に教団を支えたマハーカッシャパ(大迦葉)のことなど、仏教説話には教団発展の歴史がたくさん語られています。お釈迦さまに出会った一人ひとりがその教えを大切に守ってそれぞれの人生を精いっぱいに生きていたのです。

 『法華経』の教えは、そんな人々の苦しみや悩みをくみ取りながら、蓮の花が泥沼にありながらも美しい花を咲かすように、彼らが成仏するための道へ導かれる姿がありのままに描きだされているお経だともいえるでしょう。


  【第八節  霊鷲山にて

 人々を苦しみの世界から安らぎの世界へと導かれたお釈迦さまの教えは、燎原の火のごとくインド全土へと広がっていきました。「人は生まれによって尊いのではない。行いによって尊いのである」という平等大慧の教えが、身分制度(カースト)に苦しむ人の心を解放し、上下の区別なく供養を受けられたお釈迦さまの姿勢が多くの人々の共感を呼んだのでした。

 なかでもマガダ国の王ビンビサーラはお釈迦さまを篤く敬い、その教えを守り、仏教教団を大いに外護しました。そのマガダ国の郊外に位置する小高い山が、8カ年の間、『法華経』が説かれた霊鷲山です。また近くにはナーランダ大学といわれる僧院の遺跡が今でも残っていて往時を偲ばせます。

 しかし、そんな仏教教団の発展を嫉み、お釈迦さまに反逆して、ビンビサーラ王の子アジャセ(阿闍世)をそそのかし、クーデターを起こさせたのは、お釈迦さまの従弟だったデーヴァダッタ(提婆達多)でした。王舎城の悲劇として語り継がれているこの事件で、ビンビサーラ王は七重の塔に幽閉されて餓死し、仏教教団はさまざまな迫害と弾圧を受けたのです。しかし、お釈迦さまのお命まで狙ったデーヴァダッタは、爪に塗った毒で自らの命を落としてしまいます。また、改心したアジャセは事件以後、父王以上に教団を外護したことも記しておかなければならないでしょう。

 そんな悪道非道のデーヴァダッタも、いつの日か地獄界から救われ、必ず成仏すると説かれているのが『法華経』の教えです。言葉をかえるなら、多くの苦難の歴史があったからこそ、お釈迦さまの教えは平等大慧・絶対救済の世界へと開かれたのです。


  【第九節  涅槃への道

 お釈迦さまが一切衆生のために法をお説きになられたのは30歳の成道から、入滅された80歳までの50年でした。入滅の遠くないことを感じられたお釈迦さまは、マガダの国から故郷のカピラ城へ向かって旅立たれたといいます。その途中、チュンダ(純陀)という鍛冶屋が供養した料理にあたって、著しく体力を消耗なさったと伝えられています。しかしその場にあっても「決して気にすることはない。苦行を捨てた時のスジャータの乳粥と、私が涅槃に入ろうとする今のそなたの供養は2大供養とでもいうべきものだよ」と、お説きになっているのです。
 そしてクシナガラ(倶尸那城)の町に着き、サーラ(沙羅)の林の中にその身を横たえられた時、スバッタという一人の老人のためにお釈迦さまは最後の教化をなさいました。そのとき、スバッタは言ったそうです。「私は世尊(お釈迦さま)に帰依します。どうか私を最後のお弟子にしてください」と。お釈迦さまはそのスバッタの願いに静かにうなずかれたのでした。


  【第十節  入 滅

 お釈迦さまが涅槃にお入りになるそのときには、人間だけでなく数多くの動物・鳥や獣など、52種類もの生き物が集まってきたといいます。生きとし生けるものすべてが聖者との別れを悲しんだのでしょう。それは涅槃図を拝すればよくわかることです。
 そんななかでだれよりも悲しみ苦しんだのは、お釈迦さまのおそばにいてお仕えしていたアーナンダ(阿難)尊者でした。

 「世尊よ、世尊が入滅された後は、私たちは何を頼りに生きていけばよいのですか。どうか入滅なさらないでください。いつまでも私たちをお導きください」と、涙ながらに訴えたといいます。

 そのとき、お釈迦さまは諭すように語られました。「アーナンダよ、この世に生まれ来たものは滅していく。それが諸行無常、この世の定めなのだよ。たとえ悟りを得た身でもそれを免れることはできない。しかし私が悟った真理は永遠である。これからは私が説いた言葉を灯明とするがよい。そしてそなたたち自身を灯明として生きるがよい」と。これが「法灯明、自灯明」というお釈迦さまのご遺言なのです。
 法を灯明とせよというのは、だれもが仏になる教えを信じて歩めということ。また、自らを灯明とせよと言い残されたのは、自分の不断の信心を大切にしなさい。他人に依存してはだめだよということです。(『長阿含経』所収の「修行経」による)


  【第十一節  久遠のご本仏

 それでは、『法華経』に説かれる「久遠のご本仏」とは、いったいどういうお方なのでしょうか。たとえ、お釈迦さまが入滅なさったとしても、昔も今もこれからも、仏さまは永遠だということです。お釈迦さまは、私たちみんなが成仏することを願っておられます。その願いを明らかにするために法華経が説かれたのです。殊に「如来寿量品第十六」では、そのすべてを語られています。

 そこには、お釈迦さまが人間としてお生まれになった80年のご生涯だけではなく、お釈迦さまがはるか昔、数え切れないほどの昔から私たちに語りかけ、私たちを導こうとする永遠の真理の体現者に外ならないことが明らかにされています。
 如来寿量とは、そのお釈迦さまの寿命(慧命)が量り知れないはど長く、無限であるという意味です。そして後半には「我もまたこれ世の父、諸の苦患を救う者なり(我亦為世父 救諸苦患者)」との立場がはっきりと示され、「 ( つね ) に自らこの念をなす。何をもってか衆生をして無上道に入り、速やかに仏身を成就することを得せしめんと(毎自作是念 以何令衆生 得入無上道 速成就仏身)」という久遠の願いがこのまま説き明かされているのです。それゆえ、日蓮宗ではお釈迦さまのことを久遠実成本師釈迦牟尼仏と申し上げます。はるか昔から、真実の仏として私たち衆生を導いてくださる唯一無二の師、お釈迦さまだからです。

 日蓮聖人は、主・師・親の三徳を兼ね備えられた久遠のご本仏はお釈迦さまよりほかにはないとお考えになり、絶対の帰依を誓われました。お題目をお唱えする私たちはこのことをしっかりと知っておかなければなりません。

 お釈迦さまと『法華経』と日蓮聖人、これこそ私たちがお題目の信仰を正しくいただく3つの宝、仏・法・僧の三宝なのです。