本立寺の起源

 信長、秀吉、家康、戦国大名が天下統一を目指し各地で戦の烽火が上げられていたころ当山は本立寺としての歴史を刻みはじめた。しかし、その起源については多くの資料に恵まれておらず、確かな日時を特定できないが寺伝によれば1566(永禄9)年の開山とされている。1830年に昌平坂学問所の地理局が編纂し江戸幕府に献上した『新編武蔵風土記稿』の101巻に記された本立寺の記録を参考にすると、寺に伝わる創立年を確定できないまでも大きなずれがないことを知ることができる。

 寺伝には後に身延山久遠寺第17世となる江戸谷中瑞輪寺の住職であった慈雲院日新上人が身延に上られる途上八王子に草鞋を脱ぎ、当地に勢力を持っていた真言宗の寺の住職と激烈なる法論をたたかわせ、最後に釈尊の説かれた『法華経』とそれを身に読み、『立正安国論』等の数々の諌言をもって国の曲がった政治を諌めようと身体を張って国や人々のために殉じた日蓮聖人こそ従うべき師であると説き、その僧を寺ごと日蓮宗に改宗させたのが始まりとされている。真言僧はその時名を本立院日建と改め、本立寺を開創した。

 寺の在った場所を特定することはできないが、寺伝や『新編武蔵風土記稿』によれば天正年間(1573〜1592)、1587年頃までは瀧山城城下にあり、城の主であった北条氏が滝山城から新たに八王子城を築城しそこに移ったことに従い寺も八王子城城下へと移転した。しかし、その八王子城も完成を見ぬまま1590年、全国統一を目指す豊臣秀吉指揮の加賀の前田利家を総大将とする、前田、上杉の軍勢に敗れ落城し、その後現在の八王子市の原形となる八王子の町が形成されるのに伴い慶長元(1596)年現在地へと移った。寺が創立してわずか30年のうちに2度の引越を経験したことになるが、その後は現在に至るまで400年以上、29代の住職が法燈を継承している。

 江戸中期の八王子の町の様子を伝える『新編武蔵風土記稿』からは寺の建てられた上野原宿にはその当時で屋敷わずか13件とあるから、町とはいえ今では想像もできない風景の中に寺があったことであろう。開山となった本立院日建上人は開山から48年後の慶長19(1614)年に亡くなられているが、そのことから開山上人の年齢を想像し、寺を開いたときの年齢を想像すると30歳にもなったかならないころに本立寺の住職となったのではと想像される。確かに、日建上人を教化し、日蓮宗の僧侶に改宗させた日新上人も当時32歳であった。現代では法論をたたかわせ、その結果によって宗派が変わることなど皆無に等しいことで、理解しにくいが、江戸幕府が落ち着き、寺請制度等が浸透するまでの時代においては宗派間の対決も珍しいことではなかった。

 1501(文亀元)年には日蓮宗と浄土宗の間で激しい宗論があり、1532(天文元)年には法華一揆が山科本願寺を焼く事件、1536(天文5)年には有名な天文法華の乱が起こり、比叡山の僧徒によって京都市中の日蓮宗寺院がことごとく焼かれ帝都の日蓮宗は大打撃を被った。そのように本立寺が創立した時代は各宗派がそれぞれにその教義を鮮明に打ち出し、競った時代であり、法論の結果僧侶や寺が宗派を変えることも珍しくなかったと思われる。

 また、本立寺という寺の名を考えても時代の気風を感じることができる。おそらく日建上人が改宗以前に住職であった寺の名は本立寺とは名乗っていなかったであろう。「本立寺」という寺号は日蓮宗に多く、東京だけで5ヵ寺もある。その名の表すところは「法華経の本門を寺の教えの中心として打ち立てる」、あるいは「本仏(お釈迦様)を本尊とする」ということである。これらは他に対してはっきりと自己の教えの基とするところを宣言しているのではなかろうか。日建上人の名もまた然りで、「日を建てる」、すなわち日蓮聖人を信奉すると読める。いささか想像過多であろうか。また、開山にあたり、忘れてはならないのがそれを外護した人々の存在である。当山の開山は千人隊の隊長であった原刑部胤從が日建上人に帰依し尽力したことによるとされてきたが、千人隊のルーツは甲州の武田武士であり、武田氏が豊臣方の徳川家康に滅ぼされたことにより家康傘下となり、八王子城の落城と家康の関東入国により八王子に移ってきたわけで、それは1590(天正18)年のことである。したがって、原胤從は日建上人が滝山に寺を起したときからの庇護者ではなく現在地に寺を移したときに大きな功労があったと思われる。胤從公の墓は現在も当山墓地にあり、その子孫が健在である。また、東京都の指定文化財にも指定されている。このようにして本立寺は力強いサポートを得て日蓮宗の寺院としてはっきりとした旗印を掲げスタートしたわけである。
 

 【江戸時代の当山

 開基原胤從公は1595(文禄4)年に亡くなり、開山日建上人も1614(慶長19)年10月16日、大阪夏の陣の前年に亡くなられた。その後、日信、日瑞、日観上人と三代の住職が法燈を継承し第5世日悟上人の時代に諸堂の整備が整ったようである。日悟上人の命日から判断すると4代将軍家綱(1650〜70年)の頃かと思われる。当山の歴代住職墓にある日悟上人の墓に中興と刻まれていることからもそのことを確認できる。

 当山が現在地に移転してからの歴史は徳川幕府の歴史とほとんど符合しており、江戸時代が世代を経て成熟し、八王子の町が発展するのと歩みを同じくしたであろうことは予想できるが、具体的資料は乏しく、日悟上人の時代までに一応の寺観が整った以後の第6世日永上人から第17世日迅上人までのおよそ150年間の様子を知ることは難しい。 時代的にはおよそ5代将軍綱吉から12代家斉までの間で、江戸文化が成熟し幕末の騒乱が起こる以前である。したがって、人々の暮らしは戦から遠ざかり比較的穏やかで、町民文化も栄えた。寺の側をみても一時の他宗との戦いも少なくなり、檀家制度は確立し町民と向き合う時間が増え、寺と地域が密着した関係を作った時代であったと想像する。

 寺の過去帳には篤信の檀家の記録があり、例えば、1750年川村小七郎氏庫裡建立、1751年塩沢藤右衛門氏境内敷石寄付、1806年横山宿丁子屋祖師堂建立、1813年子安中山弥兵衛氏祖師堂修復等、檀家が寺を支えていることを伺い知ることができる。しかし、江戸期には飢饉や疫病の流行も少なくなく、時に寺が貧窮し、伽藍整備もままならず窮余の策として江戸市中にご本尊の出開帳に赴き資金稼ぎをしたこともあった(1781.7.11〜9.16まで、浅草・玉泉寺にて)。前述の『新編武蔵風土記稿』は江戸後期(1810〜30年頃)のもので第18世日通上人が住職されていたころ、すなわち開創から250年を経た当山の様子を伝える数少ない貴重な記録である。

 いわく御朱印寺領12石、御朱印寺領とは幕府から賜わった土地である。現在の単位ではおよそ2500坪、その敷地の中に境内があり山門・本堂、広さ9間7間(現在は7間四面)、向拝2間四方、屋根銅葺、廻廊1間に8間、その他に鐘楼堂2間四方、本堂の向いには祖師堂2間3間があり六老僧日昭上人作とされる祖師(日蓮聖人)像が奉安されていた。この祖師像は現在の本堂にお奉りされている御像である。その他、祖師堂の並びに3間四方の番神堂があり、七面さまも合わせて奉られていた。まさに大伽藍であり、寺の勢いを察するに十分な寺観を整えていた。1790〜1800年頃の調査を基に作られた八王子宿の街道絵図には当山も描かれており、それを見るとその姿をかなり詳しく知ることができる。

 1842年3月4日、33歳の若さで当山の第20世となった先代日寿上人の弟子で美濃国出身の合掌院日晋上人は久しく本堂の手入れがなく老朽化が激しいことを嘆き、『法華経二十八品』のうち『観世音菩薩普門品第二十五』を800巻読誦し、本堂の再建を祈願した。しかし、残念なことに志し半ばのわずか36歳で逝去され、その志を当山17世日迅上人の弟子である弱冠29歳の精進院日解上人に託した。日解上人は1848年6月1日第21世住職として入山し、1865年、発願より20年以上の歳月を経てついに新本堂の完成にこぎつけた。この日晋、日解両上人の偉業はやはり歴代住職墓の両上人の墓石に刻まれている。完成した本堂は建坪120坪の大伽藍で近隣に比を見ず、八王子大空襲で消失するまでその威容を誇った。もし、あの空襲がなければ現在も我々の誇らしい道場として存在したはずである。完成は明治維新から3年前のことであった。


 【
明治以後

 江戸幕府が崩壊し、薩長を中心とする新しい政府ができ、すべてに西欧を範とする時代が訪れた。この歴史的な転換は当山にもけして無縁ではなかった。宗教界が受けた最も大きな衝撃は神道を国教と定め、仏教を廃止しようとする動きが起こったことである。また、西洋文化の根幹を成すキリスト教の伝道も広く行われるようになった。人々の目が西洋的な物質や考え方に移りはじめた。寺請制度の下、安穏とした空気が漂っていた仏教会に存続の危機が襲ったのである。

 そのような時代背景の中当山の住職は先見の明に鋭く、衝撃に打ち拉がれる宗門のみならず仏教会全体をリードする立場に立ち、国内外に活躍した。特異な存在としては第21世として1848年6月1日に入寺した日解上人がいる。上人は当山退任後、成子・常円寺で明治維新を迎えたのだが、西洋文化が流入し、世界に対して門戸が開かれた今、英語を習得する必要性を感じ、当時東京大学の前身であった神田の語学学校に通い『法華経』の英訳に挑戦したのみならず、毎朝のお勤めを英語で行ったと伝えられている。現在まで当山が外国との縁が深いのはこんなところにあるのではと思う。

 このようなユニークな住職の影響なのか、明治期に就任した当山の住職は時代のうねりに対応し人材育成・教育・宗門の近代化・仏教の社会貢献と多岐にわたって活躍した。その中でも特筆するのは第23世日龍上人と第25世日住上人である。日龍(及川眞能)上人は千葉県飯高の生まれで、当山22世安原上人に師事し丹後・宮津本妙寺の住職を経て1850年5月、当山に入寺した。本立寺の住職を務めた後、成子・常円寺、本山平賀・本土寺と晋まれたのだが、その功績は人材の育成に尽くされたことにあり、時代が変わり混沌とする仏教会を救えるのは僧侶の資質を高めることと看破し、人材の育成に努め、この師匠の弟子達が各分野で活躍し宗門をリードし、社会に貢献した。キリスト教が学校教育や医療の分野に貢献することに影響を受け、1932年に東京南千住に『立正診療院』を開設したのも眞能上人の弟子であり、その病院には若き日の武見太郎や、柴田一能上人の長男実氏が医師として勤務した。

 眞能上人の弟子の中でも当山の25世となる柴田一能(佛子院日住)上人は幼くして出家し、先先代日解上人の薫陶もあって、明治学院、慶応義塾に学び、福沢諭吉に認められ慶応の第一期留学生として1901年米国エール大学に留学し、苦学の末マスター・オブ・アーツの学位を得た。留学の許可を尋ねられた師匠である眞能上人は大変喜び、資金捻出のため勧募帳をもって当山の檀家回りをしたそうだ。ところが帰国早々富国強兵の気運高まり、日露戦争が勃発。上人もまた兵隊として出征することとなった。上人の腹にはその時受けた銃弾の傷があり、そのことを生涯の語りぐさにしていたそうだ。戦争が終わり1907年、当山に入寺、35歳であった。住職就任後はそれこそ寸暇を惜しんで国のため、宗門のため、当山のために働き、1931年には宗祖650遠忌の報恩事業として本堂の大改修等を行った。また、慶応大学・立正大学教授、立正大学理事長、日蓮宗宗務総監を歴任し、広い視野をもって宗門の近代化に尽力した。余談になるが、八王子にクリーニングの技術を伝えたのはアメリカ帰りの柴田上人と言われている。

 【戦後の復興

 眞能上人が亡くなられた1937(昭和12)年、一能上人が成子・常圓寺に晋むと、その後を受け及川真学(本妙院日修)上人が31歳で当山の第26世の法燈を継承した。大東亜戦争開戦の四年前である。真学上人も一能上人と同じく眞能上人の薫陶を受け成子・常圓寺で修行した1人である。当山の住職となる以前は立正大学で心理学を修め、その研究継続のため台湾帝国大学で研究に従事し、帰国して立正大学の講師となっていた。本来なら学術的な分野での活躍を志したかもしれないが、時代は戦争へと大きく傾いていった。上人もまた自ら陸軍兵として南方方面へ出征した。当山の檀信徒もどれほど戦死したことであろうか。仏壇に「英」、「勇」、「武」と英霊に贈られる文字が刻まれた位牌をお奉りしている家は多い。

 1945(昭和20)年8月2日未明、米軍B29の爆撃により当山のすべての建物は灰塵に帰し、1865年に落成した本堂も地下室と土台を残して全焼してしまった。ただ、幸いにもご本尊とわずかな寺宝は本堂地下納骨堂を防火室に改造していたため難を逃れた。八王子市の80パーセント以上が焼け、死者400人以上、けが人2000人、焼失家屋14000戸、人々はただぼう然と立ち尽くすしかなかった。寺では地下室にご本尊を安置し黙々と被災者・英霊の供養が行われた。国の歴史と同様、当山の戦後の歴史は復興の歴史といえる。戦地から帰国し焼け野原となった当山の姿を見た住職の気持ちはいかがなものであったろうか。しかし、現実の姿にただ立ちつくしてばかりいるわけにはいかなかった。境内に作られた畑の世話と奉加帳をもって檀家回りをする生活が始まった。だれしもが苦しい時代である、寺に寄進する余裕のある人などいない。

 しかし、住職を先頭に総代、世話人が気持ちをそろえ復興へ少しずつ動き始めた。1946(昭和21)年1月、臨時総代会を開き、総代・青木孝太郎、安藤信太郎、小川孝喜、山田竹次郎、田中国太郎諸氏の賛同を得て、本堂と客殿・庫裡の建設事業が決議された。1948(昭和23)年6月には本堂の建築許可が下り、1949年2月上棟式、1950年には客殿庫裡・完成、1953年5月24日、立教開宗700年の記念として本堂の落成式を執行した。建築費220万円、総代でもあった青木建設が工事を請け負い、300軒の檀家が各自の住居はいまだ仮設建築の不自由の中にありながら結束し、菩提寺の復興を優先させた。新本堂は総檜作り、銅板葺き、七間四面、建坪60坪の堂々たる伽藍で、いまだ焼け野原、バラック小屋の多い中にいちだんと聳えて見えた。

 1955年には市内堀の内・横倉源氏が守護していた祖師堂(26坪)を摩利支天堂として当山に移転、同年10月12日のお会式に落成式、翌年には境内の南面、東面の周囲120間に塀を造立、その後、日野市豊田の山口氏寄贈により正門を整え、浄行堂を新築した。終戦から一五年を経ておよそ寺観を復旧し、真学上人は後を長男であり、弟子の真介上人に託し成子・常円寺へと晋まれた。

 1961(昭和36)年11月18日真介上人は29歳で第27世の法燈を継承し、師父の残された仕事に取り組みつつよく檀信徒と交わり、苦楽を共にすることを住職の本分とされ、檀信徒を教化した。また、上人は学者としての一面も持ち「原始仏教」や古代インドの言葉である「パーリー語」研究の第一人者として宗派を越えて日本仏教界に貢献する大局的な視野から僧侶の役割を追及し、寺にあっては全国各地から集まる若い僧侶を訓育したのみならず、スリランカ、ベトナムからの留学僧を預かり寝食を共にした。そのような住職の考えも影響し、寺は明るく開放的に復興していった。1965(昭和40)年には八王子市から告示があり寺の西側・南側が道路拡張の区画整理にかかることとなり、墓地の移転を余儀なくされる檀家との協議を繰り返し、1980(昭和55)年頃までにほとんどの墓地の移転を終了した。この区画整理により江戸時代からの寺観が現在の様子に変わった。

 1982(昭和57)年には総代・千葉豊、安藤芳次郎、矢崎嘉平、小川ハル、小宮真治が中心となり、各地域を代表する世話人各氏と協力し600軒を超える檀家から2億4千万円を超える寄進を受け、宗祖日蓮聖人700遠忌の報恩事業として客殿庫裡を松井建設の施工で新築した。この大事業をもって戦後の復興を終えることができた。また、昭和55年には前住職真学上人が米国加州サンノゼ市に妙覚寺別院を建立、同56年には摩利支天堂を市内宇津貫町の七面堂に移転し法華寺を創立するなど復興から発展の時代に入りはじめた。

 1985(昭和60)年4月、真介上人は師父真学上人を補佐するため成子・常円寺へと移り、法弟周介上人が京都本山妙覚寺の執事から当山28世住職として入寺された。国勢も上向き、当山においても復興事業が終わり、安定した寺院運営が行える状況になり、上人は前住職の意向をよく受け継ぎ、いよいよ檀信徒と寺の結びつきを深め、仏法が広く社会に貢献することを念頭に老人福祉施設を頻繁に訪問するなど地域社会に活躍した。真介、周介両上人の尽力により当山の檀家数も戦後の2倍以上に増えた。また、一能、真学両上人が携わった立正大学の運営に寄与し常務理事として宗門大学のために働く等、当山に期待される使命を果たした。

 1999(平成11)年4月、第27世真介上人の長男及川玄一師が第29世として入山された。上人はサンノゼ妙覚寺別院、シアトル日蓮仏教会と、開教師として8年間米国で暮らし、その後、成子・常円寺で執事を務め当山に入られた。師は入寺間もない2000(平成12)年夏、本堂等、諸施設の老朽化に対応すべく各施設を修繕することを総代・小宮真治、小川慎、川村真、矢崎利昭、安藤謙治、並びに世話人各氏と協議し、その結果、来るべき宗祖立教開宗750年の慶讃事業として当山が益々法華経の道場として、また、檀信徒の拠り所として機能すべく大改修事業を行うことを決めた。そして、檀信徒一同に賛同を求め、浄財を勧募し、その結果、700軒を超える方々から2億4千万円余の寄進を受け、入札の結果地元三友建設を請負業社に決め、2001(平成13)年春、事業に着手した。

 この事業により、1566(永禄9)年に日建上人が開山した当山の伝統が未来へ延びていく力を得ることができた。およそ450年当山がこの地に生き続けられたのはなぜだろうか。そして、この先も法燈が継承されるにはどうすればよいのだろうか。答えは歴史の中にある。

 本立寺は「本」を「立」てるから本立寺なのである。これからも仏教の本質を伝えられる寺であらねばならない。