ご挨拶

長光山 本立寺
第30世住職 及川一晋

 僧侶の道を本格的に歩み始めてから30年近くの月日が経ちました。その道が正しのかあるいは間違っているのかを自問自答しながら日々を過ごしてまいりました。その中で正しいと判断できるとすれば、自らが大きな歴史の上に立っているということをどれほど自覚できているか、そして今立っているこの場にかかわっている先輩諸兄や同輩たち、そして僧侶である私を信頼し食わせていただいている檀信徒、さらには生活を共にしている家族(妻と4人の男の子)の話に耳を傾けているかではないでしょうか。

 昭和42(1967)年、八王子市本立寺に生まれた私は、以降高校を卒業するまで本立寺でお世話になりました。当時本立寺は私の父が住職をしていましたが、父の他に修行をしている方が常に2〜3人はいて、中にはベトナム難民と言われたベトナム人僧侶の方がいたりスリランカから来た南方の僧服を着たお坊さまがいたりと、母や兄姉妹と常に大家族で、母はお寺のことお檀家さんのことはもちろん、そうやって修行している方々のお世話に奔走し、家族の暮らしを二の次にせざるをえない様子でした。

 境内は割と広く大きな木が繁り、とは言ってもそれは子供の目であって昭和20(1945)年8月2日「八王子大空襲」で全山灰燼に帰したわけですから、戦後に植えた欅や公孫樹であり、兄や修行に来ているお坊さんとキャチボールをし、近所の子供たちとの遊び場でした。戦後建てた「バラック」と呼んでいた木造住宅(足付きでブルーフィルムのかかった白黒テレビが置いてあり、井戸があって夏になるといただいた西瓜を落として冷やしていました)があった程ですから、周囲の住宅地も未舗装で雨が降ればグチャグチャ、下水も完備されず「ドッポン」式の便所で「汲取り」と言われるバキュームカーが来るような状態でしたからなんとなく臭うわけです。それでも小学校は5クラスもあって、早朝から校庭の陣取り合戦。学校まで歩いて3分の私はよくドッヂボールの線を足で引いてボールに座り仲間が来るのを待っていたものでした。学校の先生からは田舎ですから、「お寺のお坊ちゃん」といった感じで待遇がよく、逆にそのことが嫌であったように思い返されます。同級生と草野球をやり、小学校高学年からはサッカーを始めて高校まで続けました。特に高校時代の練習はきつく、この時に体を鍛えたことがフィジカルの基礎になり、またその時の仲間が、そう会うこともありませんが心の支えでもあります。

 私の祖父は平成4(1992)年3月に亡くなるまで新宿区常円寺の住職をしていました。日蓮宗僧侶の最高位である大僧正にもなり身延山のお役や立正大学の理事長や京都にある本山の貫首を勤めるなど、戦後の宗門をリードした一人であると思われます。そんな「おじいちゃん」に可愛がられた孫ですから祖父にともなわれて身延山や日蓮宗宗務院などに鞄持ちで同行しました。狭い寺の世界ですから、「あなたのお祖父様には大変お世話になりましたよ」と言われ、恐縮してしまうことも度々でした。子供の頃、京王線に乗って八王子から新宿まで行くのですが、新宿駅に電車が着いたとき、「常円寺〜 常円寺〜」と大きな声で言って親を恥ずかしくさせたことをぼんやりですが覚えています。

 父には私が大学を卒業して正式に僧侶になる時に、あらためて師匠になっていただきました。原始仏教・上座部仏教の経典に使われているパーリ語を翻訳し研究しています。本立寺から常円寺、そして千葉県多古町の本山日本寺、さらに松戸市の本山本土寺を転々とし、それぞれの立場でも新たに事業を起こすということはほとんどせず、ただそこに集う人が自然に和やかになる、という様子を時折垣間見ましたが真似のできないことです。80歳を過ぎてもなお盛んに八王子の寓居で研究に没頭し、平成21年9月に出版した村上真完氏との共著『パーリ仏教辞典』では出版元の春秋社が「第46回 翻訳出版文化賞」を受賞。平成24年8月に日本印度学仏教学会より『鈴木学術財団特別賞』を受賞されました。

 私は平成8(1996)年1月末より八王子市川口町にある延寿院の住職になり、以降22年が経ちました。延寿院は江戸時代享保年間に蓮華寺の塔頭として現在の文京区小石川白山に創立されました。戦前・戦中・戦後の都市化による都市計画や戦災により一時豊島区雑司が谷に疎開していたこともありましたが、昭和42年に発展を企図して八王子の現在地へ移転しました。私は八王子生まれですが、そうは言っても全く知らない土地に来て、お寺の歴史もお檀家さんの一人も知らず、という所からの出発は大変勉強になりました。周囲を散策してみれば分かるのですが、これ程素晴らしい所もそうそうありません、ここで生まれた者でないだけに、良い所と不足していることに気付けたのだと思っています。新宿常円寺の執事長を兼職しながら、都鄙のお寺のあり様の違いを感じること(※1)もできました。

 偶然にも「東日本大震災」の直前に『東京里山墓苑』を開苑し、東京では初の樹木葬墓所の運営を始めました。ほぼ同時にNPO法人ロータスプロジェクトを設立し代表となり、環境保全活動(里山保全)をし、寺院を一つの場としたコミュニティの再生、『シネマ』『マルシェ』『ヨガ』などのワークショップを定期的に開催し、フリーペーパーの発行を始めました。寺や環境に経済の循環をもたらし、今現在の課題に気づき解決し持続可能な社会をめざすという、壮大な存在意義を掲げました。従って課題は無尽にあり、日々その解決方法を模索し協力者たちとともに働いています。

 平成29(2017)年6月からは新たに京都市上京区の法音院住職を兼任しました(※2)。この寺は大本山妙顕寺塔頭として700年の歴史を有するものの、借金まみれで建物は廃屋同然、檀家は離散し0軒でした。「宿坊」による復興を目指している最中であります。

 そして、平成30(2018)年4月からは更に生まれた寺である八王子市本立寺住職と隣接する明月教会担任をも兼任することとなりました(※3)。「故郷に錦を飾る」とも言えるのかもしれませんが、私にはそんな余裕は全くありません。久しぶりに住むことになった町はかつて私が楽しく遊んでいた街とは様変わりで、商店の殆どは世代交代が進まず閉店となり、路地に遊ぶ子供の声は聞こえてきません。どこの街も同じような傾向なのでしょうが、幸いにも寺に御朱印を受けに来るかたが毎日数名はいらっしゃいます。時代や社会の変化の中で、今までの経験を活かし、新たな実験を開始していきます。基本となるのは、『檀家第一』で祖霊への日々の供養と行き届いた掃除をしてまいります。

 私は理念を具現化する意味での代表であり、フィールドを提供するお寺、本立寺・延寿院・法音院・明月教会の住職であります。お釈迦様は「世界は素晴らしい」と言われました。世界とは人間のためだけにあるのではありません。全ての生命には消長があり有限でありますが、同一種の生命の中ではつながりが続くかぎりは燈火が消えるということはありません。しかしただ一種だけで過ごせるかといえばそれは不可能です。世界とはつながっているからすばらしいのです。現代社会では「環境」「災害」「自死」「貧困」など様々な問題があり、これらを一つの問題として扱ってまいります。それは人間の問題だからです。日々変化し、新たに起きる問題を根本から見つめ、そして解決していきます。その為の具体的な場を太古から人間が自然と共生してきた里山や街に求め、そこを人間の安住の地とすることであらためて生を見つめなおす機会となり、傲慢ではなく謙虚に生きることとなり、その行為がその周りの方々をさらに幸せにすることとなるはずなのです。私は今ある社会の課題をつみ残さず一つ一つを着実に解決していきながら、いま責任を負っているこの場において、多くの方が「安心」で「憩い」と感じられる空間を造ってまいります。

※1 NPO法人ロータスプロジェクト及び東京西部教化センター・東京教化伝道センターによる活動

1、多摩産材木材活用による循環型社会の実現
 ①国産材「杉」塔婆普及活動(廃塔婆を燃料にバイオマス発電を導入)
 ②庫裡建築に国産材「杉」を利用
 ③樹木葬墓苑を開設し、骨壷に「杉」を利用
 ④障害者福祉施設「山の子の家」による国産材「割り箸」の販売

2、「東日本大震災」など被災地復興活動
 ①被災住宅・寺院からの泥出し
 ②避難所における傾聴活動
 ③慰霊法要の実施

3、自死者追悼法要の実施
 ①「僧侶の会」による毎年12/1「いのちの日」法要を補助
 ②東京教化伝道センターによる毎年5月初旬の「いのちの日」法要を主催

4、新宿常円寺を場とした活動
 ①フリーペーパー『LO+』を年4回発行
 ②「生きる」をテーマにした映画会『ロータスシネマ』を年6回開催
 ③マルシェ『寺市』を年3回開催
 ④ヨガ教室『ロータスヨガ』を月2回開催

※2 超高齢化社会を迎えるにあたっての寺院の存続、新たな社会的意義を見出す
 ①地方の過疎化
 ②寺院の統廃合
 ③新しい寺院の存在
 ④本山の維持法
これらを前提としながら、由緒はあるものの老朽化した建物、檀家0からの『宿坊』とメンバーシップによる『樹木葬』を展開

※3 八王子という衰退する地方都市にあって、450年の歴史、800軒の檀家、1万坪の所有地(142軒の借地人)をして、街づくり寺づくりを行う
 ①境内を『公共空間』へ 「安心」な「憩い」の場へ と整備
 ②旧参道の整備(借地人へ協力をあおぐ=住宅の生け垣、街灯整備)
 ③正門袖塀の耐震化及び格調のある塀へかけ換える
 ④新たに街の中に『寺ショップ』を運営
 ⑤『寺ハウス』や『図書室』を開設