改元に思う

 四月三十日に天皇陛下退位の儀、そして翌日には即位の儀が執り行われました。当日は特集でテレビ番組が組まれ、百貨店などにも特設会場が用意されたようで、多くの方にとっても三十年の来し方を振り返る機会になったのではないでしょうか。そして、その際には様々な何かに対して「感謝」という思いを懐いた方も多いことでしょう。

 五月は会計決算の承認をいただく会議が多く、いくつかの法人や団体の会計を担っているので、事務作業に苦労しています。その中で一つだけ会計期間が六月から五月の団体があって、つい先日まで「平成三十一年」と書くことがあたりまでであった習性が直りません。「平成三十年度決算」で「平成三十年六月~令和元年五月」というのもしっくりきません。また、寺にはお亡くなりになった方を順に記録していく「新寂帳」がありますが、これも当然のことですが「平成三十一年」から「令和元年」と書くようになります。感覚としてはまだ馴染まないながらも、何百年も残る大切な事柄をしかも毛筆でしたためるという行為は、書き手の気持ちを清新に導きます。まだ駆け出しの頃に、祖父が「新寂帳」へ「正月七日 此れより改元 平成」と書いていた姿を思い出しました。応召による南方方面への出征経験や、戦後復興を体現した方ですから、様々な思いがあったのかもしれません。住職として改元の節目に当たるのはそうないことです。

 僧侶には「水行」という修行があります。冷水をかぶることで身を清めます。改元は古くは天皇一代に一回とは限らず、天災や人災など人意ではどうにもならないことを天意によって除災得幸へと向かわせるために、人心を一新させる効果を狙ってのこともあったようです。水垢離(ルビみずごり)は肌に水がささり、発する声からは邪気が抜けていく体験をともないます。一瞬だけの一新に終わらせず、六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)を清浄にして、特に「意根」から様々に「感謝」をささげる、という社会や人々にしていかなければなりません。そのようになれたならばこそ「満足」が得られるはずです。天皇を「統合の象徴」と言います。ますます多様化するからこそ、寺も地域にあって統一性を形成する役割を果たしていくべきであろうと思っています。

「延寿」363号 掲載