NPO会報によせて

皆さま 明けましてお芽出とうございます。

 私のところには、さまざまな方や団体から「お便り」が毎日のように届きます。「またか」と思うところからのものもあれば、楽しみにしているものもあります。以下に「あ そうか」と気付かされましたので転載します。一度ではなく二度も三度も、そして日を変えて読んでみると違う思いを持っていただけるかもしれません。

傷もなく、つややかに実ったリンゴと傷ついたリンゴ。
私たちは、たくさんのリンゴから一つを選ぶ時、傷ついているよりもきれいなリンゴを選んでしまいがちです。しかし、傷ついたリンゴがおいしくなることをご存知でしょうか。
木になっている間、リンゴは傷のついた部分を治そうと陽の光を浴びた葉からの栄養を蓄え、旨味が増す・・・
眼からの情報にとらわれて、簡単に比べてしまう私たち。
しかし、比べるということは見えない部分=本質を見失わせがちです。
傷があるから甘くなる。
あなたの傷は、きっとあなたのココロに栄養を蓄えることでしょう。
一時の痛みは、痛みを知る優しいココロを育てるでしょう。
新しい一年が始まろうとしています。
見える傷に囚われず、本質を見抜くココロの目を持つ一年になりますように。

(東松山市妙昌寺「寺報」87号より)

 若い頃は、なんでも人と一緒がいい。そうあるべきだ。と思っていました。でも現実にはそうもいきません。ひそかに、人よりも抜きん出ていたい。とも思っていました。でも現実にはそうもいきません。

 最近は、まあこんなもんかな。とも思いますが、もうちょっと頑張ってみよう。と少し欲張ってみるところもあります。何をやっても、誰かのお陰なんだな。なんてしたり顔になることも少しですが増えてきたような。

 今年も同じことを繰り返しながら、耳を傾けながら、気付ける自分でいられるようにしてまいりたいと思っています。

 どうぞ、本年も当法人へのご賛助をお願いいたします。

 元旦より、皆さまのご健勝・無事息災を祈念しています。

NPO法人 ロータスプロジェクト代表
及川一晋

「LotusNews」38号に掲載

身命を愛せず 無上道を惜しむ

 春の始の御悦びを申し上げます。

 今のこの状況が始まってから、二年が経ちました。この間に総理大臣が二回代わりましたが、政権に変化はありません。イギリスでは保守党と労働党、アメリカでは民主党と共和党が二大政党で政権交代が行われます。日本では戦前の一九三〇年前後に立憲政友会と立憲民政党が並立したことがありましたが、わずかな期間であり、五・一五事件の軍事クーデターによって政党内閣は崩壊しました。その後は近衛文麿を除くと軍人出身の首相が続き、敗戦を迎えます。戦後は象徴天皇制となり、選挙制度も変わり民主主義は大きく前進しました。しかし、五十五年体制は自民党と社会党による二大政党制のようですが、万年野党と言われたように、政権交代は起こりませんでした。二十一世紀となると、中選挙区制から小選挙区比例代表並立制になり、政権交代しやすい選挙制度が「衆参のねじれ」を生み、比較的短命な政権が「決められない政治」と「国際的地位の低下」をもたらしたかのようになりました。二〇一一年の東日本大震災と福島第一原発事故は、翌年には民主党政権を吹っ飛ばしました。

 それから十年が今の姿です。コロナ禍は政治社会に大きな影響を及ぼしていますが、更に個々人や家族という単位へものすごく大きな影響を与えつつあります。もう他人事ではなく、自分ごととして考えざるを得ない機会を与えてくれています。日蓮聖人は『立正安国論』にこのように書かれています。

  世皆正(よみなせい)に背き、人悉く邪に帰す。故に善神は国を捨て去り聖人は所を辞して還らず。是を以て魔来たり鬼来たりて、災難並び起こる。

  仏法隠没(おんもつ)せば~衆生及び寿命色力威楽減じ、人天の楽を遠離し、皆悉く悪道に堕せん。

  法華経に云く、我身命を愛せず、但(ただ)無上道を惜しむと。

  国は法に依って昌(さか)え、法は人に因って貴し。国亡び人滅せば仏を誰か崇むべき。法をば誰か信ずべきや。先づ国家を祈って須(すべか)らく仏法を立つべし。

 どんな国というよりも、どんな社会であったらいいのか、どんな暮らしがしたいのかを主体的に考える人が増えていくことでしょう。ただし、七六〇年前に言われたように「身命を愛せず 無上道を惜しむ」と次世代に持続可能な社会となることを期待します。

 皆様が心穏やかに本年一年を過ごせますよう、元旦より祈念しております。

「延寿」379号 掲載

謹賀新年

 春の始の御悦びを申し上げます

 何の根拠もありませんが、「コロナ禍」が収束したような気分になっています。「非常事態宣言」は九月三十日に解除され、リバウンド防止のための施策も段階的に現状を確認しながら緩和されてきました。日本だけがなぜか鎖国をしているように安穏に恵まれていることが不思議でなりません。それでも、この状況が始まってから既に丸二年が経ち、換気は常に必要でしょうが、人と人との接触をいつまで制限し続けなければならないのかと、贅沢にも考えてしまいます。

 夕方から一人で呑みに行くことが全く無くなっていましたが、久しぶりに出かけたところ、常連さんたちと会い、お互いに知ったもの同士で飲むのは安心だよね、となりました。甲州街道の並木がきれいですよね、と会話が続きます。昔の八王子は十一月中には落葉していたんじゃないかな?暖かくなったねと。この二年の様子から、二〜三十年の話しになり、さらに、太平洋戦争開戦から八十年だってねとなりました。コロナで萎縮した見方から開放され、過去を振り返り、未来の僥倖を想像する元の生活に一時ですが戻れたようでした。

 個々人の自由を尊重する態度が家族の形態をも変えてきました。日々の暮らしの中では好都合なことが多いようにも思います。しかし、いつ起こるともわからない災害時のことを思うと、日々の生活から培われる「共助」がないと、「自助」や「公助」だけではどうにもなりません。ソーシャルディスタンスという言葉が一般化した今、改めてお寺こそがいい距離感の場となり、僧侶からいいお節介ができないかと考え、他者を仲間として身近に感じる空間を作っていきたいと思っています。

 この原稿は皆さまが穏やかに新年を迎えることを祈りつつ、十二月十二日に書いています。元旦から十日間の「七福神めぐり」にはお寺におりますので、ご挨拶をさせていただきます。

「山風」 89号 掲載