新緑

 人にはそれぞれ向き不向きがあり、好き嫌いもあります。教育の中では、集団生活や行動を通して規律を求め、我慢や頑張りも期待されます。全体の調和こそが良いことで優先されるべきものだと叩き込まれて来ました。私が生まれ育ち、今は住職をしている本立寺では、昔から寄宿生活での僧侶養成教育をし現在でも行っています。私は割りと決めたことを通そうとします。他に強要しているつもりはありませんが、立場もあってかそうは見えず、周りを窮屈にしているのかもしれません。三月には三年間の決められた期間を経て、二十歳台の二人が卒寺し、四月からは五十歳台の僧侶希望者が入って来ました。

 桜の花が散り始めると、落葉樹からはどこからその力が湧き出てくるのだろうかと、不思議に小さな葉が一斉に姿を現します。常緑樹でも冬の間も枝にしがみついていた葉がついに落ち、新緑が目立つようになります。地面からも草が顔を出し、本当は名前があるだろうに「雑草」と十把一絡に格闘を始めます。私は「暇」を好まず、たいした娯楽もせずに、全てを「仕事」として詰め込んできました。

 私の書斎からは池が眺められ、時には幼児の声も聞こえてきます。そこに鴨の夫婦(つがい)がやって来ました。ときには泳ぐこともありますが、大半の時間を小岩に座り陽向ぼっこをしているようにしか見えません。ここに至るまでには卵からヒヨコになり親から守られ、そしてついには巣立ち苦闘があり、幸いにも伴侶に恵まれた姿なのでしょう。彼らにとっての一大事は、親がしてくれたように抱卵し、次世代に命を継なぐことに決まっています。草にしても同じことで、全ての生命は継承こそが最も大切なことであって、他はありません。「天の三光に身を温め 地の五穀に魂を養う」のです。私は五十五歳になりました。同年輩の社会人はラストスパートで第四コーナーを廻りました。まだ若いんだから、とも言われますが、真に受けずスパートをかけてまいります。

 家に居ることが多く、体を動かす機会が減った方も多いでしょう。どうぞ体調の変化にお気をつけください。延寿院の自然は元気です。いらしてみてはいかがでしょうか。

「延寿」381号掲載