八王子だから八福神

 日常で使っている言葉の中には、仏教に由来していることがありますが、教典に示されている意味で使われているとは限りません。例えば、「無学」は「学問がない人」という意味で使っていますが、お経では「学ぶことがもう無い人」「学び尽くした人」という意味となり、そういう人はいないんだよ、というくだりで使われます。

 「平等」というのも「分け隔てなく」という意味になり、給食の配膳係さんはお茶碗に同じ分量を盛り付けるように注意していますね。私が毎日読んでいる『法華経』では、「普く慈雨を降らす」と喩えられています。それは、森の中の大きな木には大きな木なりの雨粒を、中くらいの木には中木なりの雨粒を、小さな木にはそれなりにと、一本という単位に対して定量ではなく、それぞれが生きていく上で必要な量を与えることを恵みとしています。けれども全てに普く手が差し伸べられる、救いが差し向けられることを平等としているようです。慈雨を受けた者はその人なりに頑張らないといけません。

 この数年、大きな社会変化がもたらされ、トリアージという命の選別が声高になったように感じます。私はチャンスが皆にある「平等大慧(仏様による功徳)」が良いと思っていますが、仏様のおっしゃられることを人は大昔から素直に受け止めがたいようです。そこで編み出されたのが、眷属と言って仏様がお使いに出した神様たちで、その為にそれぞれの効能が割とはっきりとしています。豊作には大黒様、大漁には恵比寿様、揉め事には毘沙門様といった具合で、それらのオールキャストが「七福神」となっています。

 八王子では毘沙門天の奥様である吉祥天が加わり、八福神となり元旦からの十日間の「めぐり」は八王子近在の恒例行事となっています。今年は初めて「納涼 八福神めぐり」と銘打って、コロナ第七波のピークにもかかわらず催し、千人以上の方々が、中には浴衣姿でお参りしてくださりました。除災得幸と招福を願うのは人の常であります。それはこの世が、仏様の慈悲に包まれていることを、神様を通じて感じている方が大勢いるからに違いありません。

 今は「墓じまい」をする人が増えています。寺でも「無縁墓地」という言葉を使ってしまいます。本来は「無縁」とは「縁が無い」ということではありません。むしろ、「全てが関わり合い繋がっている」と理解します。八王子や八福神の「八」は「末広がり」を意味します。ますます「ご縁」を大切にしてまいりましょう。

お彼岸を迎えます。お寺に安心してお参りください。

「山風」 92号 掲載