お経を上げること 祈ること

 今年は東日本大震災物故者にとっては第十三回忌であり、関東大震災から満百年ともなります。災害は忘れた頃にやってくる、と言いますが、できれば起きて欲しくない、起こらないだろうと思うのも人情です。

 日常の生活では、地球が回転をしながら太陽を回っていることに気づきません。大地がほんのわずか少しずつ動き隆起していることにも気づきません。知識としてそうなのかなと思う程度で、桜島や箱根の地震活動が活発になってきたと知らされても、そのうちに収まるだろうといった感覚です。

 お経は数千年前に、お釈迦さまやその周辺の方々がお話しなられたことがまとめられました。その後に、注釈書が沢山出されてきていますが、お経は書写され活字となり印刷物となってからは一文一句たりとも内容を変えることはなく、その一字一字が仏なのだともされてきました。私は日々の読経を大切にしています。受持・読・誦・解説・書写が修行の基本です。たびたび「理解しながら、お読みになっているんですよね」と訊ねられますが、堂々と「そんなことはできません」と答えています。確かに子どもの頃から読書とは理解することであり、思索の種となることでもありました。お経は黙読をしません。音読をします。その場に相応しい声調で楽器のように奏でることに意味があります。つまり、仏さま(この場合の仏とはご本尊であり、供養の対象であるご先祖を言います)に気持ちよくなって欲しいのです。そして、僧侶の集中力は増していき、一時的にではありますが仏が自らの中に存在することを目指しています。世界は諸行無常の哲理にあることは自明であり、そのつながりの作用に活かされています(諸法無我)。ただし、そのお経の音調の際だけはひと時の永遠の場となることが人々の安心を支えているものと信じています。つまり、祈りという数値化できないことが人々や世界を支えているのです。

「山風」 94号 掲載