「住職の雑感」カテゴリーアーカイブ

和気満堂

 暑い夏から涵養の秋へと季節は移りました。過ぎてしまったことは忘れ易いものですが、今夏の熱は温泉に入浴した後でもしばらく火照るように、体の「芯」に余韻が残っているような気がします。

 八月上旬に「八王子まつり」がありました。主な会場となる甲州街道の舗装を直前に改修し表面温度が改善されたので、酷暑の中でも様々な催しが昨年のように中止になることはありませんでした。そこで心配になるのは、来夏の「東京オリンピック・パラリンピック」です。今更中止はもちろん涼しいときにずらすこともなく予定通りに行うのでしょうから、真剣にならなくてはいけません。私も他人事とせずに、お祭りの当事者としてお神輿を担ぐ側にまわるべく、いくつかのことを準備してまいります。

 開催が東京に決まった際に言われた「おもてなし」を、着実に実践している人がどれほどいるでしょうか?同義の英語は「hospitality」ですが、「おもてなし」が旅館の女将さんによるサービスというニュアンスが強いのとは違い、個人宅に訪問した方への心のこもった接客を意味するようで、同義とはいいながら、まったく違うようにも感じます。よそ行きの「裃」を着て、相手に接するのを礼儀とするのが日本の文化として是とするならば、それはそれで良いことなのかもしれません。日本の近代は、「脱亜入欧」を進めながらも「和魂洋才」でもあったので複雑です。最近の住宅では「和モダン」が流行し、「和」の要素が好まれているようです。和とは「おだやか」「のどか」「ゆるやか」「なかよく」など、日本人が古くから大切にしてきた言葉で、「大和」と国の名前に使った程です。仏教でも、施し方の一つとして「和顔愛語」が説かれてきました。  来年は遠方より今までに増して様々な方々が訪れることでしょう。お迎えする側として、どんなに熱くとも辛くとも「with a gentle face and a nice word」で接するように、修行をしてまいります。そして、お寺が「和気満堂」となるように。

「山風」80号 掲載

近い将来に備えて

 夏の始まりは、冷夏のまま終わるのではないかと期待を抱かせるほどの気候でした。しかし、一転して孟夏となり特に残暑が長く続きました。年々と気温が上昇していき、そのうちには四十度を超えるのだろうと、もはや「諦め」を感じている方も多いのではないでしょうか。問題は変化が個人の感じ方以上に急激であり、しかも着実であることです。海水面の上昇により島が沈み、山林火災によっても住む場所を失うなどはわかり易い現象ですが、生態系の変化がひたひたと忍び寄り、動物やもちろん人間にも種族の存亡にかかわるほどの大事となるようです。延寿院でも先代の寺井住職が植えてくださった白樺の木が一本また一本と枯れてなくなってしまいましたし、桜の開花は早まっています。

 七月二十一日にあった参議院議員選挙の際にも話題になりましたが、多くの方々の生活を支えている年金支給がどのようになっていくのかという、五年に一度の見通し(財政検証)がやっと八月になって公表され、やはりこれも話題となった「老後二千万円の蓄え」が必要なのだと思われた方も多いことでしょう。計算できる未来にはある程度の覚悟を持って備えるべき(自助)であろうとは思いますが、寺は檀家に支えられています。社会の中で「共助」の実践例として機能させなければなりません。皆さんが大切にしている「お墓」を「墓じまい」することなく、ずっと延寿院にあり続けられること、それこそが皆さんの「安心」であると信じて仕組みを作りました。今後十年、寺(延寿院)が安泰ならば、二十年三十年先も間違いありません。二〇三二年に迎える宗祖日蓮大聖人七五〇遠忌に向けて準備を進めてまいります。

【ご報告】当院先代住職寺井明道(本信院日明)上人が七月十七日に満八十九歳で亡くなりました(遷化)。葬儀は現住職が勤め、四十九日忌法要を延寿院にて九月一日に遺族によって執り行われました。私が住職として基本的な心構えを持てたのは、寺井上人から受けた影響が大きく、謹んで報恩感謝を捧げさせていただきました。

「延寿」365号 掲載

沙門

 延寿院は三百年近くの歴史があるお寺ですが、宗教法人という法人格を得たのは六十七~八年前のことでした。日本にある寺は全て同様で、法人運営の歴史は「寺の存在」に比べればはるかに浅く、しかも戦後民主主義の考え方の上に立っているともいえます。ですから世代によっては未だに、寺はそこに住んでいる住職が独善的に運営をしているのだと思われる方が多くいらっしゃるのは致し方ないのかもしれません。

 最近よくガバナンスという言葉を聞きます。日産自動車やリクシルといった会社が、株主を巻き込んだ法人統治機構の問題が外国からも注目されニュースに扱われるからで、社外取締役といった役職も話題になりますし、創業家といった言葉も出てきます。ですから宗教法人である寺も、最も利害関係者であるお檀家さんの意志が、運営上の合意形成に強く関与することが期待されていることとなります。

 かつて、逮捕されたオウム真理教の信者が、どうして入信したのか?という問いに対して、『日本の寺は風景でしかなかった』との弁が流され、多くの僧侶は我が身の振る舞いや来し方を反省する機会となりました。私が新宿から身延までの路を行脚していた時に、上空をけたたましくヘリコプターが飛んでいたことを、いつまでも忘れません。上九一色村(当時)の教団施設へ向かう報道機関と知ったのは翌日のことで、平成七年、一九九五年五月のことでした。今やその「サティアン」と呼ばれた施設があった場所はどのような風景を見せているのでしょうか。その翌年、私は延寿院の住職となり、同時に法人の責任者としても多くのことを学ぶこととなりました。ガバナンスもその一つであって、檀家の代表者である総代さん方や、寺の運営に参画していただく世話人さん方からは、寺へのその家代々の責任・愛着に基づく助言を得てきました。

 私は住職として、僧侶として、まだまだ歩き続けます。僧侶は自身のことを「沙門(しゃもん)」と称します。簡単には「つとめるひと」を意味しますが、私は他のために「精進するひと」「奉仕するひと」と理解していますし、しかも「たゆまず行うひと」であると信じています。できましたら、ときどき一緒に歩いてくださると嬉しいです。

 今月はお盆を迎えます。十三日~十六日、ご先祖さまがお戻りになります。丁重にお迎えし今在るご自身・家族に感謝する機会になさってください。

「延寿」364号 掲載

NPO会報によせて

 5月1日より元号が「令和」となりました。二ヶ月が経ちますが、いまだに実感が湧きません。昭和64年のころは、私は学生で社会における経験が乏しく、知識として理解したのだと思われます。

 青年の一時期、近眼になり眼鏡をかけたことがありました。格好をつけてサングラスをかけていたこともあります。いつの間にか必要でなくなり、直射日光にも目を細めて立ち向かう術を身につけました。ところが、仕事でパソコンやスマホを見ることが増えたことや、さらには老いもあり、老眼鏡が必携になりました。子供のころ、大人が「天眼鏡」を使っていたのを思い出します(今なら「ハズキルーペ」ですね)。黒い茶人帽をかぶった「人相見」が行灯のある卓子を置き腰をかけ必ず持っていたのが天眼鏡です。ルーペを通して手相や人相を見てもらった人は、その言葉が不思議と一致して得心するのでしょう。天眼鏡はツールに過ぎませんが、確実に、人を診るという行為に信用を与えていました。

 もっとも診る人は自覚と本質を持っていなければいけません。つまり、その「気づき」が懺悔となり、祈りとなり、感謝となります。数百年数千年と続いてきたことにこそエッセンス(本質)があます。死も生の延長線(生きてきたままに死ぬということ)。そして継承していく、ということに大きな意味があるはずです。

 どうぞ、当法人へのご賛助をお願いいたします。

 皆さまのご健勝・無事息災を祈念しています。

Lotus News掲載

ご先祖の眼

 五月一日に践祚なされ、元号が「令和」となりましたが実感はいまだに湧きません。昭和六十四年のころは、私は学生であって社会における体験が乏しく、知識として理解したのだと思われます。また、最近の私の生活に新聞やテレビが遠ざかり、パソコンを前にすることが増えたことも一因かもしれません。

 青年の一時期、近眼になり眼鏡をかけたことがありました。いつの間にか必要でなくなり、数年に一度の運転免許更新の折の検査で、堂々と裸眼で勝負してみたらあっさりと通過し、増々不必要となりました。格好をつけてサングラスをかけていたこともありますが、オヤジになって直射日光にも目を細めて立ち向かう術を身につけました。ところが、パソコンには負け、老いにも負け、鼻先にかけるヤツが必携になりました。

 子供のころ、大人が「虫めがね」(拡大鏡)を使っていたのが思い出されます(今なら「ハズキルーペ」ですね)。そういえば虫めがねとはあまり言わず、「天眼鏡を取ってくれ」との声が耳朶に残っています。昔は大きな駅の外に、黒い茶人帽をかぶった「人相見」が行灯のある卓子を置き腰をかけていたのをよく見かけました。その人が必ず持っていたのが天眼鏡です。手相や人相を見てもらった人は内心と一致して得心する方もあったのでしょう。

 日蓮聖人は「仏眼」で見通しておられました。『松野殿御返事』と呼ばれるお手紙に、

  魚の子は多けれども 魚となるは少し
  菴羅樹の花は多く咲けども 果実となるは少なし
  人もまたかくのごとし 菩提心を起こす人は多けれども
  退せずしてまことの道に入る者は少し

とお述べになられました。更に言えば、成魚となって子をなすのは全てではないはずです。人でさえも自然の中では小さな存在であることを自覚せざるをえません。そのことに気づけたならば、懺悔となり、祈りとなり、感謝となるのです。数百年数千年と続いてきたことにこそエッセンス(本質)があるに違いありません。死も生の延長線(生きてきたままに死ぬということ)と思えるならば、日々あることの不思議を不思議とせず、感謝するようになります。日蓮聖人は法華経を体得する(五種法師)ことによって、仏の眼を得られましたが、私たち凡夫はご先祖の眼からこそ、大切な事が見えてくるのではないでしょうか。

 間もなくお盆となります。いつものように先祖をお迎えください。

「山風」79号 掲載

改元に思う

 四月三十日に天皇陛下退位の儀、そして翌日には即位の儀が執り行われました。当日は特集でテレビ番組が組まれ、百貨店などにも特設会場が用意されたようで、多くの方にとっても三十年の来し方を振り返る機会になったのではないでしょうか。そして、その際には様々な何かに対して「感謝」という思いを懐いた方も多いことでしょう。

 五月は会計決算の承認をいただく会議が多く、いくつかの法人や団体の会計を担っているので、事務作業に苦労しています。その中で一つだけ会計期間が六月から五月の団体があって、つい先日まで「平成三十一年」と書くことがあたりまでであった習性が直りません。「平成三十年度決算」で「平成三十年六月~令和元年五月」というのもしっくりきません。また、寺にはお亡くなりになった方を順に記録していく「新寂帳」がありますが、これも当然のことですが「平成三十一年」から「令和元年」と書くようになります。感覚としてはまだ馴染まないながらも、何百年も残る大切な事柄をしかも毛筆でしたためるという行為は、書き手の気持ちを清新に導きます。まだ駆け出しの頃に、祖父が「新寂帳」へ「正月七日 此れより改元 平成」と書いていた姿を思い出しました。応召による南方方面への出征経験や、戦後復興を体現した方ですから、様々な思いがあったのかもしれません。住職として改元の節目に当たるのはそうないことです。

 僧侶には「水行」という修行があります。冷水をかぶることで身を清めます。改元は古くは天皇一代に一回とは限らず、天災や人災など人意ではどうにもならないことを天意によって除災得幸へと向かわせるために、人心を一新させる効果を狙ってのこともあったようです。水垢離(ルビみずごり)は肌に水がささり、発する声からは邪気が抜けていく体験をともないます。一瞬だけの一新に終わらせず、六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)を清浄にして、特に「意根」から様々に「感謝」をささげる、という社会や人々にしていかなければなりません。そのようになれたならばこそ「満足」が得られるはずです。天皇を「統合の象徴」と言います。ますます多様化するからこそ、寺も地域にあって統一性を形成する役割を果たしていくべきであろうと思っています。

「延寿」363号 掲載

人生足離別

 作家井伏鱒二は処女作『山椒魚』を「山椒魚は悲しんだ。」の書き出しで物語を紡ぎました。『山椒魚』は大正十二年(一九二三)に『幽閉』と題して発表され、後に改作改題された、わずか十頁の短編であります。幽閉からわかるように、その棲家である岩屋での二年の間の成育によって、そこから外界に全く出れなくなってしまった!という設定で、「何たる失策であることか」との弁でその理由を説明してありますが、その間「何をしていたの?」という疑問が湧いてこないのは、この物語の「妙」とも言えましょう。本人(山椒魚)は、自虐的であるのかまたは現実逃避のように、小さく狭い場所にいるからこそ、外をよく見ることができるのだと満足(?)をもしています。そして、群で泳ぐ目高を見ては、「なんという不自由千万な奴らであろう」とまでほざき、さらに、たまたま産卵のためにその岩屋に紛れ込んできた、小さな蝦に対しては”得意げに“「くったくしたり物思いに耽ったりするやつは莫迦だよ」とまで言い放ちました。物語はここから展開を見せはじめ、なんとか脱出をこころみるものの…………..

 私の学生時代はバブル経済のまっ只中で、大学受験は戦争と言われました。従って、四年間は社会の歯車になる前のモラトリアム(大人への猶予期間)として許容されていたように思います。本立寺において修行をしていた者の名簿が残っています。昭和三十年以降だけでも四十人以上にのぼり、短い者は数ヶ月、長い者では十年以上在籍し、五反田にある立正大学へ通学をしながら寄宿生活をしていました。千差万別ではありますが、寺は件の岩屋のようであり、また、川の流れで言えば“淀み”のような場所となってきたのではないでしょうか?ただし、本立寺の岩屋は出入り自由であり、意地悪でもなく淀みに例えるならば時として急流となることもありえました。井伏氏に漢詩の翻訳があります。

  勧君金屈は 満酌不須辞
  花発多風雨 人生足離別
  コノサカヅキヲ 受ケテクレ ドウゾ ナミナミツガシテオクレ
  ハナニアラシノタトへモアルゾ 「サヨナラ」ダケガ人生ダ

 今春には岩屋を二人が卒業し、新たに二人の希望を懐いた若者を迎えます。宿主としては狷介固陋とならず、寒山拾得のようにゲラゲラと笑い合うような、自由闊達な旗をたなびかせていこうと思っています。

「山風」78号 掲載

里山保全活動

 今冬は本格的な雪が降らないままに、春を迎えそうです。昨年からお寺に住んでんでいないので、正確ではありませんが、境内を薄っすらとでも白く染めたのは一度きりで、雪かきの手間はかかりませんでした。境内が白い絨毯となるのは、ひんやりとした空気をともなって鮮烈な気持ちを臓腑のすみずみまでもたらすようです。雪の日の犬との山歩きもいいものだったと、懐かしく思い出します。

 さて、住職となって寺に住むようになって以来、暇を見つけては隣地など周囲の雑木林に鬱蒼とある笹の刈込みを勝手にやり、七年前にNPO法人を設立してからは月に一回のペースで数人の同士とともに「里山保全活動」と称して、更に範囲を拡げ裏山の林道沿いをきれいにしてきました。笹や竹に埋もれていた山桜の大木や「古墳」とも「狼煙台」とも比定されている小山が、裾野まで姿を現すようになりました。地面に光が差し込むようになったからか、ツツジがたくさんの花を咲かせるようになり、春には隠れた名所のようです。どこまで人が手を差し伸べていいのかな、とも思いますが、自然と人界との間にあるのが里山なのだから、恩恵を授かるのに適度なバランスを見つけながら、更に延寿院の良さにも結びつけていきたいものだと考えています。どうかお檀家の皆様も保全活動にご参加ください。楽しいですよ。

 次回の里山保全活動

 三月二十八日(木)十時~十二時まで

「延寿」362号掲載

NPO会報によせて

 皆さま 明けましておめでとうございます。

 私たちのNPOの活動は、主として八王子延寿院での里山保全活動などと、新宿常円寺での、街と人とお寺を結びつける活動をしてきました。

 私が住職をするお寺が昨年からまた一つ増えました。JR八王子駅南口から西の方角に10分ほど歩いたところにあるお寺で、「長光山 本立寺(ほんりゅうじ)」と言います。八王子では30年以上も前から『七福神めぐり』がさかんに行われてきました。特徴はお参りする先に神社はなく、すべてお寺であるということと、八王子の「八」にちなんでなのか、神さまも8人(七福神=毘沙門天・恵比寿天・福禄寿・布袋尊・大黒天・弁財天・寿老尊+吉祥天)で8ヶ所をめぐります。所定の「色紙」に判子を押してもらいながら、2時間30分のアップダウンの少ない行程ということもあって、年々参加者は増える一方で、1/1〜10の期間中に1万人以上がお参りにいらっしゃいます。この数年は『お朱印』もブーム。日蓮宗のお寺では別に『御首題(ごしゅだい)』という「南無妙法蓮華経」を染筆して授与しますが、いただきにいらっしゃる方が増えました。

 除夜の鐘の音とともに歳が改まります。新たな年を、少しひんやりとした空気を感じながら、気の合う人と散歩気分でお参りされたらいかがでしょうか。ささやかな幸福が得られることでしょう。『本立寺』では開運勝利!の毘沙門天をお祀りしています。

  どうぞ、本年も当法人へのご賛助をお願いいたします。

 元旦より、皆さまのご健勝・無事息災を祈念しています。

「Lotus News」 32号掲載

謹賀新年

春の始の御悦びを申し上げます。

 私にとりまして昨年は、生活上の大きな変化がありました。そのことは本紙上でも説明しましたが、延寿院に不在である時間が多くなったことへの対策は、最優先の事柄(電話や郵便・荷物の受取り、施設の管理)を実行し、その運用を含めて漸次様子をみながらも、少し楽観的に過ごしてきました。会社の人事異動でもあるように、その人がいなければ仕事が回らない、と思われていてもなんとかなることが多いように、自分を大樹にたとえるわけではありませんが、木が朽ち果てればそこから新たな芽が吹くことはあるはずです。直近の問題解決は大切なことですが、一方で長い時間軸で考えることも必要だと感じています。

 延寿院は創立300年、移転50年が経ち、寺の維持方法としての営繕積立金制度や「墓じまい」の風潮の中で、延寿院らしいお墓の維持法を作りました。お店ならば100年は「老舗」でしょうが、寺で300年はまだまだ、奈良には1400年の古刹があるますから、開店間もなくのつもりで社会の変化に目を向けてまいります。

 日蓮聖人がお亡くなりになっての750遠忌を13年後に迎えますが、今年の正月21日は日朗(にちろう)上人の700遠忌となります。私もそうですが、日蓮宗の僧侶は宗祖から「日」の字をいただき弟子となります。日朗とは高弟の一人で、737年前に宗祖が亡くなった後に、その教えを守り、残された僧侶を教育し信者を徳育し、寺としての基盤を整え、社会との融和に献身した方で、主に鎌倉を活躍の場にしました。日蓮聖人は師匠から蓮長という僧名をいただきましたが、後に自誓自戒して法華経の経文から「日」と「蓮」を選びとりました。そして、多くの弟子に「日」の字を与えました。日朗(にちろう)上人は若いときから宗祖のそばで修行をし生活を支え、佐渡へ流されたときにも遥々と鎌倉から訪ねています。それらのことから弟子中でも「師孝第一」「常随給仕」と称えられました。

 日蓮聖人は『開目抄』で「孝と申すは高なり 天高かれども孝よりは高からず 又孝とは厚なり 地あつけれども孝よりは厚からず」とお書きになり、「孝」を天よりも高く地よりも厚いと説かれました。日蓮聖人は死の床で六人の高弟を定め、その一人が日朗(にちろう)上人で、その日朗上人には九人の高弟があり、その流れが今の私に至るまで続き「日」の字をいただいています。

 皆様が心穏やかに本年一年を過ごせますよう、元旦より祈念しております。

「延寿」361号 掲載