沙門

 延寿院は三百年近くの歴史があるお寺ですが、宗教法人という法人格を得たのは六十七~八年前のことでした。日本にある寺は全て同様で、法人運営の歴史は「寺の存在」に比べればはるかに浅く、しかも戦後民主主義の考え方の上に立っているともいえます。ですから世代によっては未だに、寺はそこに住んでいる住職が独善的に運営をしているのだと思われる方が多くいらっしゃるのは致し方ないのかもしれません。

 最近よくガバナンスという言葉を聞きます。日産自動車やリクシルといった会社が、株主を巻き込んだ法人統治機構の問題が外国からも注目されニュースに扱われるからで、社外取締役といった役職も話題になりますし、創業家といった言葉も出てきます。ですから宗教法人である寺も、最も利害関係者であるお檀家さんの意志が、運営上の合意形成に強く関与することが期待されていることとなります。

 かつて、逮捕されたオウム真理教の信者が、どうして入信したのか?という問いに対して、『日本の寺は風景でしかなかった』との弁が流され、多くの僧侶は我が身の振る舞いや来し方を反省する機会となりました。私が新宿から身延までの路を行脚していた時に、上空をけたたましくヘリコプターが飛んでいたことを、いつまでも忘れません。上九一色村(当時)の教団施設へ向かう報道機関と知ったのは翌日のことで、平成七年、一九九五年五月のことでした。今やその「サティアン」と呼ばれた施設があった場所はどのような風景を見せているのでしょうか。その翌年、私は延寿院の住職となり、同時に法人の責任者としても多くのことを学ぶこととなりました。ガバナンスもその一つであって、檀家の代表者である総代さん方や、寺の運営に参画していただく世話人さん方からは、寺へのその家代々の責任・愛着に基づく助言を得てきました。

 私は住職として、僧侶として、まだまだ歩き続けます。僧侶は自身のことを「沙門(しゃもん)」と称します。簡単には「つとめるひと」を意味しますが、私は他のために「精進するひと」「奉仕するひと」と理解していますし、しかも「たゆまず行うひと」であると信じています。できましたら、ときどき一緒に歩いてくださると嬉しいです。

 今月はお盆を迎えます。十三日~十六日、ご先祖さまがお戻りになります。丁重にお迎えし今在るご自身・家族に感謝する機会になさってください。

「延寿」364号 掲載