「異体同心」(体は異なれども心を同じくする)という言葉があります。その反対は「同体異心」。血を分けた親兄弟といえども考え方や大切にするものが異なる、という意味です。時折後者の状況にある人から相談を受けることがあります。多くが「心」のところを互いに深く詰めて互いに話しをしないまま、「以心伝心」に分かってくれているはず、いざとなればやってくれるはず、と淡い「はず」を期待しているのではないかと感じます。特に、現代では情報量がとても多いので、親の側も子の側もきちんと伝えずとも、みんなこうみたいだからうちもこうな「はず」と思いこむことが誤解を生じる背景ともなっているようです。
その「はず」が互いに確認もないままになんとかなるような社会は、多様性を認めるということではいいのでしょう。それで上手いこと進めばいいのですが、結局人は一人では生きていけませんし、子孫に思いを伝承していけません。よくある、必要なお金ならあるからなんとかなるはずでは、その「はず」は「金の切れ目が縁の切れ目」となってしまう場合もあります。裏を返せばそんなことでは切れない縁が「異体同心」ということなのです。
私たちのNPOにとって「心」を聞くとはどんなことでしょうか?里山墓苑の終の棲家に選んだ人から様々なお話をお聞きします。大切な人のご遺骨をお預かりし時間をかけてパウダーにします。墓苑の区画内に丁寧に穴を掘ります。僧侶としてはお経をあげます。毎日のようにお掃除をします。ひとつひとつから目を背けず、繰り返し繰り返し行うことで同じ心になれるようです。私の心は満たされていきます。
NPO法人 ロータスプロジェクト代表
及川一晋
「LotusNews」36号に掲載