自然に包まれているということ

 二年前、オリンピック・パラリンピックを控えて、お寺も何か準備をとの思いで、当時流行った言葉「おもてなし」を寺らしく「和顔愛語」でいらした方に接しようと、そして「和気満堂」となるといいですね、と書いたことは思い返せます。ところが今は、数ヶ月・数週間・数日前のことでさえ振り返ろうにも、その取っ掛かりが見当たらなく感じています。なぜなのでしょうか。一生懸命に何とか一日を遣り過そうと努めていることは間違いありません。むしろ「懸命」なのがいけないのかもしれません。しかし、日々の情報は逼迫し、何処からか、何事かが、何時の間にか近づき包み込まれるような恐れがあります。今もあるこの状況が始まった頃に、「人間は必ず死にます」と書きました。今にして思えば、そんな事は誰もが知っています。死ぬことが大変なのではなく、「どう死んでいくのか」が判らないから不安なのであって、「死にたいようには死ねないんだろう」との思いも心配を増すことになります。

 よく誦するお経の終わりに「得無生法忍」とあります。つまり、現世は「生老病死」なのですが、法に没入することで三世(過去・現在・未来)に渡ることを大悟し、今を越えていけるのだろうと言うことです。しかし、そのようなことが示されているのだろうということが分かったことで、自分がその境地を得たということでもありません。

 先日、本堂でお通夜のお経をあげました。外の空気は秋です。御本尊とお棺と僧侶と御遺族のみ、外からは沢山の虫の声がいつまでもいつまでも聞こえます。亡き人の今生の最後の晩を、これ程美しく感じたことはありません。火葬の前の晩に菩提寺に身を置くことで、全うできたと満足できたならば、これ程素晴らしいことはありません。それは来世があり、仏界が確かにあるからです。お彼岸を迎えます。ご先祖との繋がりを感じていただき、お寺に安心してお参りください。

「延寿」377号 掲載