老・病・死に寄り添う

 世間は大変なことになっています。昨年の十二月に中国の武漢市で発症が報告された「新型コロナウイルス」が、日本を含め世界五大陸に拡がり、止まることをしりません。身近で感染した人はいませんが、日々刻々もたらされる情報により、各人が立ち話、挨拶話をすることで大変なことになっているようにも感じます。つまり、「よくわからない」ということが大変なようです。しかしながら、注意すべきことは、「バスや電車での混み合った状態での乗車を避ける」「帰ってきたら手洗いやうがいを励行する」といったことで、子どもの頃から言われてきたことを真面目に愚直に万人が行うことがパンデミックを避ける秘訣のようでもあり、当たり前のことを当たり前のように行うことがいかに難しいかを教えてくれているようです。

 たまたまですが、時を同じくして普段はまったくいかない病院へ度々行くことになりました。隣県にある大規模病院で、自動車でちょうど一時間の距離にあります。約二十年前にお檀家の女性から相談を受けました。その時には無かった言葉ですが今流行りの「墓じまい」のことから、ご先祖の「永代供養」を、そしてその女性がお亡くなりになった際の「葬儀」の喪主と導師を勤めることを約束しました。まだその方も七十歳代で私も三十歳代と今から考えれば若くて、随分と安請け合いをしたものです。三年前には公証役場での「遺言書」作成のお手伝いをし、二年前には「死後事務委任等契約」を交わしました。つまり、その方のあらゆることを委ねられました。昨年夏に入院し、その手続をしますが、そういった際には必ず医師から説明を受け「急変時の対応」について、いくつかの「する」「しない」の選択を迫られ、サインをしなければなりません。もう二十年以上のお付き合いですから考えは理解しているつもりです。病室で二人になって話すことは、昔のことやみんないなくなってしまった家族とのことをずっと聞いています。それで十分に理解できます。親戚でもなんでもないけれど、なんだか馬が合うし、いい関係のようです。病院に行くと様々なことが見え、凝縮された社会を目にします。いつまでも病院に行けるか分かりませんが、刻々と変わる状況の中で大切なことは何なのかを学び、判断ができるようにしていきたいと思います。仏教が古から教えている「老・病・死」から、今を生きることの大切さに気づかされます。

「延寿」368号掲載