記憶の継承

 最近のご葬儀では、お通夜を勤めることが必ずしも絶対ではなくなってきました。そして、随分前から直葬が増え、家族葬が当たり前になっています。このような風潮の中でも、私はお亡くなりになられたと聞くと、すぐご自宅に伺いご遺体と対面して行う「枕経」を大切にしています。

 僧侶としてご葬儀に携わるようになったのは、約三十年前からです。それ以前で記憶にあるのは、保育園の同級生が交通事故で亡くなったときに参列したのが初めてで、元気に一緒に遊んでいたのにあっけなく会えなくなってしまうんだなとは思いましたが、それよりも、園代表のもう一人の女の子と手をつないだことの方が感触に残っています。小学生の時の身内の葬儀で、棺の蓋を閉じるときに「二回だよ」と言われ叩いた音も耳に残り、出された寿司桶に並ぶ色鮮やかさも目に焼き付いています。

 昭和は天皇の崩御で終わり、私は八王子に生れ育ち当時は新宿に住んでいましたので、新宿御苑での大喪の礼や、多摩御陵(たまごりょう)と呼び慣れていたのが武蔵野陵(むさしののみささぎ)と呼び名が変わって不思議に思い(後で大正天皇陵が多摩で昭和天皇陵が武蔵野と解りました)、後に東京都知事になった猪瀬直樹のデビュー作『ミカドの肖像』を読んだのも、社会の不思議な雰囲気の中で「ミカド」に惹かれたのかもしれません。僧侶となり、ご葬儀には数え切れないほど出座しました。遺骸に手を合わせること。ご導師の法話や喪主のご挨拶や弔辞を聞くこと。その一つ一つが私の糧になっています。当時の参列者は百人から二百人以上で、会社を創業した方の「社葬」も度々ありました。印象深いのは戦死をした方の五十回忌法要が多くあったことです。社会としては、亡くなられた方への「いのり」がこの頃にピークを迎えたのかな、と今では思えます。

 昨年、お檀家の中島裕さんからシベリア抑留を記録した『我が青春の奇跡』を贈呈していただきました。ご自身が描いた絵と文章を読むと申し訳ない気持ちになります。私が子どもの頃に実感したように、今の子どもたちにも記憶に残るような「看取り」や「見送り」を心掛け、今後も「今際(いまわ)の際(きわ)に携わってまいります。

「山風」82号掲載