正しく学び 畏怖する

 私は随分前から「アーユス仏教国際ネットワーク」という、一九九三年に超宗派の仏教者を中心に創立された国際協力のボランティアを行うNPO団体と付合いがあり、お彼岸やお盆の頃に発行する「栞」を送ってくださっています。今夏の「栞」に「正しく怖がるために」という一文を掲載していたので紹介します。

 「自分が病気に罹った時、人に言える病気と言えない病気がありますか?ある場合、どういう病気だと人に言えませんか」

 高校の保健の授業で、生徒に質問します。生徒の多くの答えは、

 治らない病気だと言いづらい。人にうつす病気だと言えない。

 というもの。そして、彼らは考えます。どうして言いづらいのだろう。言いづらいけど言わないといけない時って、どういう気持ちになるのだろう、と。

 この授業のテーマは、エイズ。感染経路や予防方法などを学んだ後、感染した人の手記を読み、自分自身が、もしくは身近な人が感染症に罹った時の気持ちについて話し合います。その時の問いかけのひとつが、前述のもの。

 タイ国では一九九〇年代にエイズが猛威を振るいました。しかし、それだけに予防教育が広がり、また病気の進行を抑える薬が普及し始めるなど、二〇〇〇年代以降は感染の拡大に歯止めがかかっています。この背景には、感染した人たちが自らの感染を公にして、地域社会の中でのエイズへの意識を高め、受け入れてもらうように努力した積み重ねがありました。

 感染症の広がりは、「うつる」という恐怖だけでなく、「あんなところで遊んだからだ」などと、差別感情までも生み出すことがあります。でも、差別し感染者を排除する限り、病気は目に見えないところで広がるだけでしょう。現実を直視して、正しく怖がることで感染症を抑えることができると、身をもって証明したのが、タイのエイズの歴史です。

 世界的にはまだまだ新型コロナウイルスの感染が収束していません。予防法や感染した場合の治療法が確立されない限りは、今の状態が続くでしょうし、また違うモノが出現するのかもしれません。出現することがむしろ地球の歴史なのでしょう。撲滅するというよりも、付合い方を正しく学ぶことの方が大切なように感じます。

 今月はお盆を迎えます。十三日~十六日、ご先祖さまがお戻りになります。丁重にお迎えし今在るご自身・家族に感謝する機会になさってください。

「延寿」370号 掲載