「住職の雑感」カテゴリーアーカイブ

地球を守る

 私たちの日蓮宗でも、これからの新しい方針を決める際に「SDGS(持続可能な開発目標)」や「ジェンダーフリー(従来の固定的な性別による役割分担にとらわれず、男女が平等に、自らの能力を生かして自由に行動・生活できること)」を意識した議論が始まっています。私はこれが宗教の社会化に向かっていけばいいだろうと考えています。しかしながら、この二年は新型コロナウイルスの蔓延によって、予定をしていた様々な計画や事業は頓挫・規模縮小・延期となり、行えなかったことによって生じたであろうことも「しょうがない」という雰囲気の中で済まされ、検証し課題とすることも行われていません。

 先月には、本立寺の本堂を会場にしてワークショップを行ないました。五十人ほどが集まり、同時にユーチューブでライブ配信をしました。環境活動家の谷口たかひさ氏による『地球を守ろう』という講演でした。大人たちもそうですが、参加した子どもたちの反応が希望となりました。気候変動は自然破壊をもたらすだけではなく、資源の争奪によって平和を維持することが地球規模で難しくなります。今までの戦争のように限られた地域での出来事ではなく、同時にあらゆる場所でしかもいつ終わることもなく続きます。遠い未来のことではありません。このままでは私が生きている間にも始まってしまいます。コロナウイルスは既に四百万人以上の命を奪い、多くの家族に悲しみをもたらしましたが、気候変動はその比ではありません。それではどうしたら良いのでしょうか?仕組みを如何に変えたらいいのでしょうか?

 誰かがやってくれるだろうや私ごとではない(限界脳)では前に進みません。コロナ禍は多くの方が状況や問題を理解し、マスクを着用することで収束してきました。一人ひとりが他人に思い遣りを持ち、一年二年ではなく死ぬまで心根を変えて行動していくよりありません。マスクは使い棄てが推奨されていますが、環境問題では、どのような素材で作られたものでもなるべく長く何度でも使い続けることが大事なようです。日本人の本来の性分には合っているのではないでしょうか?楽しく愛着を持ちながら地球のことを考える一人になりましょう。

 これから冬本番を迎えます。どうぞご自愛ください。

「延寿」378号 掲載

NPO会報によせて

 気候変動によって世界中で、人間が生き続けるための状況を維持しようと動き始めました。2030年までに、販売する自動車を電気にしようというのは象徴的です。テスラが先陣を切り、既存の会社が追いかけています。

 私は3年前から生活をする場所が変わり、生まれ育った場所に居る時間が長くなりました。近所には昔からの知り合いがいて、かつての同級生もいるようです。ある会合に参加したら、私の向かいに座っている人に隣の人が話し掛け、「私の妻と同級生なんですってネ。〜年生まれで〜小学校ですよネ」と聞こえてきました。ん?ということは僕とこの方は同級生ではないかと思い、「あ!それじゃ私もそうです。担任は〜先生でした」ということがありました。お名前をお聞きしても失礼ながら小中9年間も一緒なのに全く思い出せません。家に帰って卒業アルバムをめくってみると、こんな奴もあんな奴もと思い起こしてみましたが、それでもほとんど下に書いてある名前と顔は一致しません。中学の担任の先生の顔を見ていたら、クラスが変わり先生が自分の名前を書いて紹介していただいた時のことを思い出しました。確か、先生は前任地がインドネシアかタイの学校で教えていらして、その時に黒板にチョークで「工夫」と書かれました。読み方が難しいのですが「くふう」ということを説明してくれたのでしょうが、何を意図されたかまでは憶えていません。でも、大切なことなのだと思ったからこそ、思い出したのでしょう。

 欧米や中国ではドラスティックな変化があるにもかかわらず、いかにも日本では遅々とし進まず、焦燥感や取り残されているのではないかという思いが募ります。10月から書道教室を始めることにしました。お手本を置いて写していきます。下手ですが、受け継ぎ、積み重ねるという工夫によって、踏襲する発見という幸せを実感できるのではないかと楽しみにしています。


NPO法人 ロータスプロジェクト代表
及川一晋

「LotusNews」37号に掲載

コロナ禍体験記

 東京オリンピックの閉会式が行われた後の旧盆の頃、西日本では集中豪雨による災害があり、甲子園の高校野球も随分影響を受けていました。このように通年の八月とは趣きが異なり、原爆投下・御巣鷹山の日航機事故・終戦記念日などの個々人による静かな祈りがかき消され忘れられる程で、祝祭事の基底にある追悼を、さらにコロナ禍のザワツキが人々から慮る余裕を失わせてしまったように感じました。

 そのコロナ禍が顕在化して既に六百日以上が経ちました。本立寺では昨年八月に住職の家族が感染し、保健所の指示によって全員が濃厚接触者としてPCR検査を受け、全員が陰性ではありましたが二週間の健康観察期間となり、予定されていた法事を延期、葬儀を新宿常圓寺が代行、日々の受付は接触を避けるために雪見障子越しで応対となり、個々人も生活が制約され大変な思いをしました。それ以降、寺では食事時間をずらすことで一度に食べる人数を制限しアクリル板を人と人の間に設置し黙食を励行、ドアノブなど共通して触れる場所の消毒をしてきました。今年の七月下旬には僧坊で生活する五人の内一人が感染。今回は庫裡に暮らす住職家族は検査の対象にはならず、不在中の一人を除く三人が検査陰性でした。しかし自室療養となり、台所・風呂・便所などの共用スペースは消毒を心懸けましたが、もう一人から症状が出て自ら簡易キットで検査し陽性、医師の診断を受けコロナが確定して自室療養となりました。寺は住職と通勤の僧侶の二人だけで法務を行うこととなりました。僧坊の二人は恐らくデルタ型で、昨年とは異なって後遺症もそれぞれに残り、味覚障害や頭痛から未だに本復していません。二人とも罹らなければよかった、と言っています。幸いにも老親は二度のワクチンを打ち終えましたが、若い人たちにはまだ順番が回ってきません。フェーズが変わったことを実感しています。出来るだけの注意を怠らず、活動出来ることと、してはいけないことに分け、こういう事態だからこそ寺がすべきことを見つけ、前向きに進めています。

 その上で、私は僧侶ですから、お経をあげ祈りを捧げ、そして自らの免疫も上がることを信じています。いつの間にか日は短くなり、夜になると虫の音が聞こえてくるようになりました。お彼岸を迎えます。お寺に安心してお参りください。

「山風」 88号 掲載

自然に包まれているということ

 二年前、オリンピック・パラリンピックを控えて、お寺も何か準備をとの思いで、当時流行った言葉「おもてなし」を寺らしく「和顔愛語」でいらした方に接しようと、そして「和気満堂」となるといいですね、と書いたことは思い返せます。ところが今は、数ヶ月・数週間・数日前のことでさえ振り返ろうにも、その取っ掛かりが見当たらなく感じています。なぜなのでしょうか。一生懸命に何とか一日を遣り過そうと努めていることは間違いありません。むしろ「懸命」なのがいけないのかもしれません。しかし、日々の情報は逼迫し、何処からか、何事かが、何時の間にか近づき包み込まれるような恐れがあります。今もあるこの状況が始まった頃に、「人間は必ず死にます」と書きました。今にして思えば、そんな事は誰もが知っています。死ぬことが大変なのではなく、「どう死んでいくのか」が判らないから不安なのであって、「死にたいようには死ねないんだろう」との思いも心配を増すことになります。

 よく誦するお経の終わりに「得無生法忍」とあります。つまり、現世は「生老病死」なのですが、法に没入することで三世(過去・現在・未来)に渡ることを大悟し、今を越えていけるのだろうと言うことです。しかし、そのようなことが示されているのだろうということが分かったことで、自分がその境地を得たということでもありません。

 先日、本堂でお通夜のお経をあげました。外の空気は秋です。御本尊とお棺と僧侶と御遺族のみ、外からは沢山の虫の声がいつまでもいつまでも聞こえます。亡き人の今生の最後の晩を、これ程美しく感じたことはありません。火葬の前の晩に菩提寺に身を置くことで、全うできたと満足できたならば、これ程素晴らしいことはありません。それは来世があり、仏界が確かにあるからです。お彼岸を迎えます。ご先祖との繋がりを感じていただき、お寺に安心してお参りください。

「延寿」377号 掲載

受け継ぐことの有難さ

 日本の仏教には多くの宗派があります。中国大陸や朝鮮半島を経由して六世紀に伝来し、その後も留学した僧侶や官吏によって仏典や仏像・仏具がもたらされ、朝廷のあった奈良平城京に納められました。そして、官寺や氏寺が造立され、東大寺に代表されるような教義による南都六宗が整えられていきました。しばらくすると、大陸で総合的に仏教を学んできた僧侶たち、特に伝教大師最澄による天台宗比叡山延暦寺や弘法大師空海による高野山金剛峯寺へと展開されていきました。

 仏教は教えの弘まる時期を「正・像・末」と区分し、十一世紀の末法の始めには浄土教が庶民の間にも拡がり、極楽往生が説かれました。度重なる自然災害や飢饉疫病は貧富や階級にもよらず、目の前の人が次々と倒れていく様は厭世的な気分を社会にもたらしました。叡山の座主は貴族の出自で占められていましたが、教えを求める僧侶が諸国より集まっていました。法然・栄西・道元など現代に続く宗教宗派の開祖はみなここで研鑽しました。日蓮宗の祖師である日蓮聖人もまた比叡山で修学し、寺門派園城寺や南都興福寺や高野山や聖徳太子の四天王寺にも学ばれたようです。そうした八宗兼学の中で、幼き頃から称えた念仏を捨て、法華経に説かれた菩薩行による成仏の教え、久遠釈迦牟尼世尊の現前を唱題によって確信することとなりました。このことは聖人滅後も弟子たちによって聖人がお書きになった「ご妙判」や法華経の色読を寄りどころとして、七四〇年を経た現代に多くの人々によって伝えられてきました。

 日本では様々な仏教宗派のベースに先祖供養が浸透しています。ところが危惧されるのは、その象徴である「お墓」「お仏壇」を負の遺産と考える人がいるとのことです。あらゆる事や物が換金されプラスやマイナスで評価される社会の成れの果てとはいえ、一千数百年来この方、先祖が数十代にわたって残してきてくれた事や物を、現在の価値観だけで判断してしまうのは勿体なくはないでしょうか。受け継げることや受け継ぐものがあることの有難さに気付けるようになりたいものです。 

 今月はお盆を迎えます。十三日~十六日、ご先祖さまがお戻りになります。丁重にお迎えし今在るご自身・家族に感謝する機会になさってください。

「延寿」376号 掲載

NPO会報によせて

「異体同心」(体は異なれども心を同じくする)という言葉があります。その反対は「同体異心」。血を分けた親兄弟といえども考え方や大切にするものが異なる、という意味です。時折後者の状況にある人から相談を受けることがあります。多くが「心」のところを互いに深く詰めて互いに話しをしないまま、「以心伝心」に分かってくれているはず、いざとなればやってくれるはず、と淡い「はず」を期待しているのではないかと感じます。特に、現代では情報量がとても多いので、親の側も子の側もきちんと伝えずとも、みんなこうみたいだからうちもこうな「はず」と思いこむことが誤解を生じる背景ともなっているようです。

 その「はず」が互いに確認もないままになんとかなるような社会は、多様性を認めるということではいいのでしょう。それで上手いこと進めばいいのですが、結局人は一人では生きていけませんし、子孫に思いを伝承していけません。よくある、必要なお金ならあるからなんとかなるはずでは、その「はず」は「金の切れ目が縁の切れ目」となってしまう場合もあります。裏を返せばそんなことでは切れない縁が「異体同心」ということなのです。

 私たちのNPOにとって「心」を聞くとはどんなことでしょうか?里山墓苑の終の棲家に選んだ人から様々なお話をお聞きします。大切な人のご遺骨をお預かりし時間をかけてパウダーにします。墓苑の区画内に丁寧に穴を掘ります。僧侶としてはお経をあげます。毎日のようにお掃除をします。ひとつひとつから目を背けず、繰り返し繰り返し行うことで同じ心になれるようです。私の心は満たされていきます。

NPO法人 ロータスプロジェクト代表
及川一晋

「LotusNews」36号に掲載

住職を「御前さま」と呼ぶ寺

 今から百年以上前に執筆された夏目漱石の『吾輩は猫である』には「人間とは天空海闊な世界を、我からと縮めて己の立つ両足以外には、どうあっても踏み出せぬ様に、小刀細工で自分の領分に縄張りをするのが好きなんだと断言せざるを得ない」とあります。

 私は寺の内では「御前(ごぜん)さん」と呼ばれています。私がというよりはこの寺ではいつの頃からか住職のことをそう呼んでいます。私が初めてお仕えしたのが新宿常円寺で、そこでも当然のように皆さんがそう呼んでいましたので、そういうものなんだと思い込んでいました。それから少し他所の寺とのお付合いをするようになると、全ての住職がそう呼ばれる訳ではなく、むしろ少数派なことに気付きました。一般的には「方丈さん」や「和尚さん」でしょうし、日蓮宗では僧侶を信者さんは「お上人」と呼んでいます。「御前会議」「御前試合」などは天皇陛下を前にしたことですから「御前」は高い敬称に違いありません。もっと格式の高い寺では「法主(ほっす)さま」「山主(さんしゅ)さま」と呼ぶようです。同じ漢字でも読み方を「おまえさん」とすれば随分と雰囲気が変わります。私の前に住職であった方々はどのように思ってこられたのでしょうか。

 映画『寅さん』に出てくる柴又帝釈天は実際にある日蓮宗の題経寺のことで、住職役の笠智衆は渥美清が演じる寅さんや門前町の人から「御前さま」と呼ばれています。本立寺住職が寺の中だけでもお檀家さんからも、「御前さん」と呼ばれてきたことはとても素晴らしいことですが、欲を言えば柴又のように、上野町・寺町・天神町・万町など周辺にお住まいの方からもそのように呼ばれたいものです。それは私の住職としての振舞いにもよりますし、町の人にとってどのように思っていただける寺であるかによるのだと思います。

 人間は生まれ持った才覚の中で活かされれば良いのですが、役割を自らが規定し安住を求めてしまいがちです。私も『御前さま』という敬称がどこか古めかしい封建的な身分なのだということを自覚しつつ、今までも社会的活動の中で呼ばれてきた『一晋(いっしん)さん』とも呼んでいただけるように励んでまいります。

「山風」 87号 掲載

花まつり

 空を眺めていても、行く雲は一つとして同じものはなく、刻々と形を変えていきます。慌ただしく月日は流れ、私の記憶からしても、今見たものも感じたこともさらさらと流れてしまい、留まることは少ないようです。であるからこそ救われているのかもしれません。

 さて、十年前に里山型樹木葬を始め、以来毎年、花まつり法要と合同供養祭を四月に行ってきました。昨年は今も続く「コロナ禍」によって無参拝で行いましたが、今年は三十人ほどが参列してくださいました。本当にこれぞ極楽浄土ではと思える程の桜が咲き、木々を渡る風に読経と焼香が相まって絢爛な装いとなりました。お釈迦さまは二千数百年前に現在のネパールにある「ルンビニ園」と言われた場所で母マヤ夫人からお生まれになりました。法要では「花御堂(はなみどう)」に幼いお姿で左手を上げ右手を下げた立像の「誕生仏(たんじょうぶつ)」を祀り「甘茶(あまちゃ)」を濯ぎます。生まれてすぐに立ち上がり「天上天下 唯我独尊 三界皆苦 我当度此」と宣言されたことは有名な逸話です。しかしながら、私たちが日頃読む「法華経」に生まれたことは書いてありません。そして、滅するということが如何なることかが多く説かれます。つまり、個々の生命に「生老病死」があることをしっかりと書かれています。当たり前のことのようですが、大昔から不老長寿が希われてきたように、人間はアンチエイジングを目指しています。しかし、事実は一個人は必ず「死」を迎えます。お釈迦さまは「滅するけれども居るよ」そして、そのことを「信じれるか」と言います。さらに、信じたものには、生死の心配から解き放たれる「無生法忍(むしょうぼうにん)」と悪をなさず善を行う「聞持陀羅尼門(もんじだらにもん)」を得ることになるだろうと、示しています。はたして、このはるか昔に説かれた教えを何人が得られたことでしょう。お釈迦さまの「願い」は今もなお受け継がれています。祖父母の「いのち」は私の体に受け継がれています。ただ、その思いのいか程が受け継がれているかはあやしいものですが、お経を読むことで多くのことに気付かされてはいます。

 家に居ることが増え、体を動かす機会が減った方も多いでしょう。どうぞ体調の変化にお気をつけください。延寿院周辺の自然は元気にしています。

「延寿」375号 掲載

NPO会報に寄せて

 私たちのNPOが管理運営を任されている樹木葬『東京里山墓苑』は、八王子市川口町延寿院にあり、檀家墓地の更に奥のまさに里山の中に立地しています。延寿院では2005年の春頃から計画が始まり、多摩産材を使った庫裡の建築が終わった後の2010年の秋にようやく墓苑を開設することが決まりました。何しろ都内初の試みでしたから、前例というものがありません。全てを自分たちで考え作り上げることができました。

 それから10年が経ち、「樹木葬」という言葉は割と一般化し多くの墓地ができました。しかしながら、循環型・持続可能な社会を目標としているという大きな理念、独自の多摩産の杉材で作った骨壷を使うということ、お骨が里山の自然に還り木々の栄養となることや、忘れられることなく僧侶による供養が続けられるというオリジナリティは全く色褪せることはありませんでした。

 10年前の大災害は「未曾有の」と表現され、津波から逃げることを「てんでんこ(展転劫)」と言います。これらは私がよく読むお経に出てきます。つまり、災害は昔から繰り返されているものの、数百年おきに起こる大災害の記憶の継承は難しかったのでしょう。だからこそ経文が使われているということは、被害を最小限にしたい、記憶を伝えたいという想いが「祈り」となったのでしょう。最期にいつまでも残るのは人々の「祈り」なのではないでしょうか。

 新たな10年に向けて、里山墓苑もNPOも、まずは会員の皆さまや地域に生活し活動する方々の声を聞き、ここを終の棲家とした人が本当によかった幸せだ、と思っていただけるよう邁進してまいります。                 

NPO法人 ロータスプロジェクト代表
及川一晋

「LotusNews」35号に掲載

出会う、ひびき合う

 かつては東京の水がめ「淀橋浄水場」があった柏木。今はそこに50階を超える高層ビルが何本も建ち、日本有数のビジネス街となった西新宿。そのすぐ周辺には日本最大の歓楽街歌舞伎町があり、様々な人種が行き交う大久保百人町があります。そんな雑多な街での活動を表現する媒体として、手から手へと渡すことができる冊子として、年4冊、通巻26冊を作ってきました。

 このことは誰かに会いたい。何かに会いたい。という欲求でもあり、誰にいつ会えるのか、という不安でもありました。人と人とは手が離れることもあれば、手を握りしめることもあるでしょうし、抱きしめ合うことも、笑うことも、涙することもあります。災害がある度に認識されてきた絆の大切さですが、今はどのように結んだらよいのかを問われています。私たちのNPOは歩みを止めません。誰かに会うことを信じ、会いたいと思っている人がいることを信じています。冬は寒く、春は麗らかです。春が来ない冬はない、と言われます。耐え忍ぶからこそ良いことがある、と理解されますが、冬には冬の良さがあり、春には春の良さがあります。それを如何に感じるかは自分次第とも言えますが、友があり、共に歓び合うことでの充実感や満足感はこれからも変わらないはずです。私たちはお伝えする方法を工夫し変えながら、今後も多くの共感の輪を作ってまいりたいと思っています。

「季刊ロータス」25号掲載