適当に そして 適当に

 まずは檀家の皆様に謝罪(社会的な罪を犯したわけではありませんが)。

 一昨年までは「延寿院住職+新宿常円寺執事長」。昨年からは「延寿院住職+新宿常円寺執事長+京都法音院住職」。今年からは「延寿院住職+京都法音院住職+八王子本立寺住職+八王子明月教会担任」。その他にも従来から、NPO法人代表・公益財団事務所長・教化センター長などを務め寺を留守にすることが多く、家族にも負担をかけてきました。この度の本立寺住職就任によって、家族ともども居を移し、ますます不在がちとなりました。見かねた石屋の麻生さんが手弁当で墓地の掃除をしてくれたり、NPOの白石さんが今までに増してよくやってくれています。私も一つの体をいくつにも引き裂いてやるつもりでしたが、引き裂くこともできず、ほぼ毎朝五時半からお経をあげ境内の掃除をし、七時までには本立寺に戻り朝勤を務めることにしています。その際の励みはノラ猫たちが出迎えてくれていることです(正確に言えばエサをくれる私を待っているだけのことですが)。

 主に八王子・新宿・京都を仕事で移動していますが、有難いことは、それぞれの場所で新しい発見や出会いがあり、それらが更に新しい繋がりを作っていってくれています。そして、皆が好意的にしかも期待を持って迎えてくれています。もちろん旧知の方々も今まで同様かそれ以上に働いてくれています。私が学生の頃に一緒に住んでいた祖父から、「『行間を読む』という言葉を知っているか?」と突然訊ねられたことがありました。今でもその時のことを憶えているということは、そのときに於いては知らなかったのか、知っていたとしてもあまり意味を理解していなかったのでしょう。それから三十年以上が経ち、今は字面を追うだけではなく、少しは感じられるようになったのではないかと思います。ある人のある言葉から扉が開かれることがあります。意図をしたとしてもその意図がそのままに伝わるとは限りませんし、まったく意図に反することも多いことでしょう。共鳴・共感するには共通の環境や土台が必要なのでしょう。『行間を読む』という積極的な態度と、その上でも成るようにしか成らないし、成るべくして成ることもある、という流水に我が身を委ねる気分が大切なのだと思うようになってきました。お檀家の皆さんからすれば「そんな諦観では困るよ」というお声が聞こえてきそうですが、総代・世話人の役員の皆さんが相当の心配をしてくださっていることに感謝をし勇気付けられています。

 将来への責任は勿論果たします。しばらくのご猶予をくださるようお願い申し上げます。

 今月はお盆を迎えます。十三日~十六日、ご先祖さまがお戻りになります。丁重にお迎えし今在るご自身・家族に感謝する機会になさってください。

「延寿」358号 掲載