撥草瞻風

 昨年の今頃は天皇陛下がお代りになって、元号が「令和」となり細事はあったものの、東京オリンピックへの準備もラストスパートといった明るい雰囲気でした。それが一変、バブル経済が崩壊した後でさえ三十年も不変と思われていた社会や国という大きな組織が、目にも見えない生命とも言えないものによって、大きく舵を切ろうとしています。これを好機と見れるかは今までの過ごし方によるのではないでしょうか。世界各地から届く諸変化にじっと耳をそばだてると、地球の陣痛の苦しみが伝わって来るようでもあります。心身を解き放ち、世界の響きとその音を素直に受容できれば、近づくステージが用意されているとも考えられることでしょう。

 自然は当たり前のように「山笑う」季節を迎えました。木々は各々の色と形にいのちを溢れさせています。一方で人間は「ステイホーム」の掛け声のもとに逼塞した生活を強いられ、ゲームなどに倦み飽きた子どもたちに見せたいようであります。

 五十歳代にもなると「らしく」振る舞うことの欺瞞に抵抗を憶えることも多くなります。これは経験してきたことによる善悪の基準を、自分の中に正しく持っているかのように錯覚してしまうからなのではないでしょうか。八王子市内の古刹をお参りした際、寺内の石柱に「撥草」と文字が刻まれていました。帰って調べてみると「撥草瞻風(はっそうせんぷう)」という禅語があり、「草をはらい 風を見る」修行行脚(あんぎゃ)のことでした。私は「正しいと思える師に出会えたならば あとはまっしぐらに進めばよいだけ」との教えであると理解しました。

 私の一番弟子(長男光介)が新宿での随身生活を発心(ほっしん)しました。親としてはウロウロしてもいい、けれども師匠としてはまっしぐらに行って欲しい、と願っています。人間の成熟とは、自分の内奥からほとばしる実直なみずみずしい声が聴こえ、支えとなってこそ意味があるのです。

「延寿」369号掲載